生きづらいと感じてきたHSPの私 ~視点を変えればすべてが新境地~ 第3章-2




 

前章: 生きづらいと感じてきたHSPの私 ~視点を変えればすべてが新境地~ 第3章-1

 

 

記事 第3章ー2  ~目次~

3.結婚、そして我が子との出会い

3-2
・初めて守るものができた
・マリッジブルー
・子を授かる
・阪神淡路大震災
・転勤で地方に引越し
・新たな船出
・仕事はセブンイレブン
・日々の職員対応・苦情処理
・食生活の乱れと激太り
・出産、我が子との出会い
・また引越し
・登用試験受からず

 

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3.結婚、そして我が子との出会い

3-2

・初めて守るものができた

無事に結婚式を終え、籍を入れました。思春期に「自分は結婚とかできるんやろうか」と漠然と不安に思ってたけど現実に結婚。
私に初めて守るものができたのです。何とも言えない心境。

寮を4年満了を前に出ました。
新居は社員の一戸建てを借り上げた代用社宅。郊外の山間を切り拓いた静かな住宅地にありました。
市街地の借り上げたマンションにしなかったのはこの方が自己負担が少なく、借金返済を抱えている私にはやむを得ない選択だったからです。

・マリッジブルー

始まった新婚生活。楽しいことばかりかと思いきや。この新居の場所が災いしました。
新居は本当に静かな新興住宅地で何もないところ。人もほとんど見かけません。
通勤も車で片道1時間以上。山を越えます。朝は渋滞。私の早朝出勤・深夜帰りは続いていました。
もちろん好きでそんなことしていた訳ではありません。当時は飲みに誘われたら問答無用。「喜んで!」の世界。有無も言わせずって感じでした。縦社会。仕事外の付き合い。神経もすり減る。で、常に寝不足。私は心身ともに苦痛で苦痛でしかたなかったのです。限界でした。

でも妻は妻で限界がきていました。専業主婦、朝から晩まで一人ぼっち。周りには人影もなくスーパーも遠くバスで行って買い物。
日中も妻のことは気に掛かってました。携帯電話なんてまだありません。当然LINEも。仕事用にポケベルが出始めた頃です。会社へ出勤すれば帰るまで話すことはなし。さぞ寂しい思いをさせていたことでしょう。
それまで妻は友達宅を渡り歩いてバイトしながら自由気ままに遊びまわっていたんですから。

その後間もなく妻はマリッジブルーとでもいうのでしょうか、情緒不安定に陥ったのです。
夜中に突然布団をひっぺ返して泣き叫ぶ、とか。奇行が始まりました。私には意味が分かりませんでした。何を言っても通じない。そのうち浮気まで疑われ、泣き叫ぶ、暴れる。突然起こります。ケンカになったり、夜中に私が我慢できず出て行くこともありました。おそらく妻自身、自分でもどうにもならなかったんでしょう。
「これからどうなっていくんやろう」不安が増えました。妻も辛い私も辛い。せっかく結婚したのに不調和音。

・子を授かる

そんな中、妻の妊娠が判明。二人で喜び合いました。
何とも不思議な感覚。「自分が父親になるのかあ」
これで家庭も落ち着いていくかなあ!?

しかし今度はマタニティブルーというのでしょうか。同じく妻の情緒はひどいつわりとともに不安定な日々が続きました。

・阪神淡路大震災

そんな時でした「阪神淡路大震災」が発生したのは。朝方でした。ものすごいたて揺れ。
妻がとっさに私を守ろうとしてくれました。
「守るものができた」と偉そうに思っていたのに守られた。「逆やろ!?」
でも嬉しかった。何か絆が戻った気がしました。
被害は棚が倒れたり、食器が割れたり。大阪の東側だったので最悪の事態は免れました。

そんな中でも使命感から出勤。会社も大阪の東側。でも窓ガラスは割れ、ビルの壁もひび割れ、棚という棚が倒れていました。

後に神戸に赴任していた同期生に聞いたところ、地震直後、周辺の戸建てはほとんど倒壊。彼のアパートは難を逃れ、九死に一生を得たとのこと。辺りには泣き叫ぶ声やうめき声、そして遺体もあちこちに。彼は近所の人たちと布団を担架代わりに救助活動をしたそうです。
救助隊が来たのは3日後だったとか。

私も後に現地の惨状を生で目の当たりにして大きなショックを受けました。
人の人生なんて一瞬で変わってしまう。そんな惨状を前に人生って何だろうかと改めて考えさせられた出来事でした。

・転勤で地方に引越し

その直後の2月。新年度の内示がでました。いよいよ「副」拠点長。管理職。
行き先は四国、瀬戸内海側。私は初めて聞く地名。
転勤族と分かっているものの血の気が引きました。「どこや?」
Googleマップなんてありません。スマホなどない時代。すぐに書店に走り地図を探しました。
妻も転勤族とは理解しているものの、伝えるには勇気がいりました。お互いに関西圏から出たことがなかったのです。

3月下旬、夫婦そろって初めての引越し。引越し準備で休日もつぶれる。大変です。
まだ明石海峡大橋も開通前。瀬戸大橋の通行料金も当時は高額。
距離や交通費を考えても簡単には故郷には帰れない。引き離される感覚。何とも寂しい気分に襲われたのを覚えています。2回目のホームシック。郷土愛の強さを実感しました。

・新たな船出

関西から初めて離れての暮らしのスタートです。全く知らない地域。

今度は借り上げたマンションが新居。不安と新鮮さが入り混じっていました。妻の情緒不安定も少しずつ治まっていきました。引越しは転機だったかもしれません。近くに大きな工場地帯があるかと思えば漁港や田んぼが広がるのどかな地域。そして山々の大自然も。ありがたいことに県道にスーパーやいろんなチェーン店ができ始めた頃でした。少し賑わい。でも繁華街はありません。それでも前居住地よりずっとまし。

伴侶ができるって心強い。拠りどころ。地方に転勤したけど孤独感はありません。一緒にいられるのが嬉しかった。

「いよいよ管理職かぁ」気負いと不安でいっぱいでした。自分で一生懸命奮い立たせていたような記憶があります。

大都市圏以外は県に一つの「支社」。県内のいくつもの営業拠点を統括します。長である支社長は拠点長たちの人事権を握っているのです。当時はまるでお殿様のような立場の人でした。着任当日、まずはその方に挨拶に出向き、その後各営業拠点に移動です。

40人ほどの営業職員と拠点長一人。朝礼で挨拶。かなり緊張しました。何を話したか記憶が飛ぶほど。
私の直の上司は拠点長。私は27才。拠点長は40才。バリバリのやり手。
で、早朝深夜休日も関係なく働く仕事マシン。やっと毎晩の飲み会から解放されたと思えば今度は仕事で長時間労働。

・仕事はセブンイレブン

毎朝7時過ぎに出勤。当時は上司より遅く出社は許されないと教え込まれていました。私が会社を開けます。でもその上司は何か思い付くともっと早朝から来ていたりする。焦る。
それがまたストレス。仕事以外の話題はほとんどなし。

今のようなパソコンやコピー機もなく、旧式のショボいワープロくらいの時代。掲示物や朝礼資料もほとんど手書き。何もかも不慣れなこともあって毎晩11時頃まで仕事。これだけ長時間労働を続ければ誰でも病みますよね? 妻にも不思議がられましたがそれが当たり前になっている業界でした。

入社来、普通に帰れた日々は本社で実習の何ヵ月かだけでした。
私は全く管理職の何たるかが分かっていない状態です。
営業職員、昔で言うところのセールスレディからも駆け出しの若いお兄ちゃん扱い。調子よく話しながらも「俺は上司やぞ」と内心中途半端なプライドが複雑に絡んでました。

上司は私を育てるためかスパルタでした。次から次に仕事を振られました。全く知識のない企業保険の実務や企業訪問まで振られ「分かりません」と言える雰囲気もなく抱え込みました。毎日頭の中は真っ白。

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・日々の職員対応、苦情対応

苦情も半端なくありました。嫌なことは「副」拠点長の役目。平成もまだ一桁の頃の話。いわゆる反社などの取り組みもまだまだありません。苦情も今より激しくたちの悪いものが多かったのです。「苦情」と聞くとビクッと恐怖が全身を襲います。

対応で死の恐怖さえ感じたこともあります。
あるときはヤクザ以上にたちの悪い輩に山小屋のような事務所に3時間監禁され、まるで怪獣のような大将に遠回しに金を要求される。
あるときは2時間正座させられ怒鳴り散らされる。
あるときは上司のいない時に限って朝礼時に木刀を持ったチンピラが怒鳴り込んでくる。
そしてまたあるときは支社の苦情担当者と共にパチンコ店でヤクザに土下座させられる。
細かなのまで入れたらキリがない感じです。私なんかはいつも相手から「これ」扱い。

職員対応も管理職としては初めて。とにかく目の前の抱え込んだ仕事で頭がいっぱいで職員対応と言ってもまともなことはできてなかったと思います。一部のベテラン職員に舐めてかかられたことも多々ありました。子供のケンカのようにキレて叫んだこともあります。
ああ、恥ずかしい。上司が「よくやった」逆に褒めてくれたのが救いでした。相手が働かない職員だったからです。今ならパワハラ扱いかも。

分からない実務、企業対応、そこに職員対応、苦情対応。日々の長時間労働に休日出勤。
上司の口癖「そんなのは土日でできるよな?」
週末の休日だけが唯一の息継ぎの日。この口癖は私に息継ぎせずに泳ぎ続けろと言うようなもの。その都度イライラしストレスは溜まる一方でした。

・食生活の乱れと激太り

平日遅くに帰っても晩飯を作って待ってくれている妊婦である妻。申し訳ない気持ちでした。もうあの情緒不安定になんかさせてはいけない。そして自分も息継ぎしないと持たない。
日曜の午前中は死んだように寝ていました。何とも辛い切ない日々でした。また酒に溺れていました。食生活も乱れ、激太り。入社来20kgは太ったでしょうか。
夜遅く帰っても妻の手料理は食べないわけにはいかないし、食べる飲む以外に楽しみもない状態。かといって当時は気の利いた外食の店もない。まさに家飲み。
みるみるスーツのサイズも合わなくなっていきました。

2階までの階段がしんどい。突然空咳が止まらない日々、全身のみみず腫れ、またいろいろな症状がでました。ストレスからなのは明らかでした。

・出産、我が子との出会い

転勤して数ヶ月が経ち、ある夜に妻が産気づきました。急きょ病院へ。かなり時間が経過。辛かったろうと思います。最終的には帝王切開で無事出産。よくがんばってくれました。

男の子でした。難産のせいか担当医に呼ばれました。「何かあったのか?」血の気が引きました。後遺症のような障害が残る可能性を覚悟するよう言われました。
喜ぶ間もなく不安に陥りました。後々お陰さまで何もなく済みましたが。

赤ちゃんは小さすぎたようで保育器に入ったまま。ガラス越しにしか会えず。「これが我が子かぁ」新しい命。さっきまで妻のお腹の中にいた。自分に子供ができた。動いている。不思議な感覚でした。自分が産んだわけでもなく、実感はあまりない。でもこれが我が子だ、と。しかし頭は尖って顔はくしゃくしゃ。赤ちゃんはこんなものと思いつつも「うーん、何かなぁ、大丈夫かなぁ」これ、正直な感覚です。父親が本当に我が子を実感するのはもっとあとになってからですかね。

育児が始まりました。でも私はほぼ何もできず。妻は一人でがんばってくれました。
夜泣きも私がちゃんと睡眠がとれるように気を遣ってくれました。ありがたい。至れり尽くせり。
私が仕事から帰る時間には子供は寝ている。起こしたい願望。でも我慢。寂しい。寝顔を見ると父親の実感がじわじわ湧いてきました。家庭を持った喜びと実感もひしひしと感じました。安らぐなぁ。

・また引越し

初の副拠点長から2年。また同じ県内で引越し。拠点異動の辞令です。

今度は県庁所在地。華やぎがありました。繁華街もあります。嬉しい。
今度の上司は女性。アバウトなやり手のおばさん。ひとまず仕事マシンからは脱出。
少し副拠点長というポストにも慣れてきていました。

ただ営業職員の人数も更に増え、デジタルも進んでない時代なので長時間労働は相変わらずですが。
この拠点に2年間。だいたい2~3年のローテーションで異動します。

・登用試験受からず

私はこの副拠点長の間、昇格のための「拠点長登用試験」を受けました。筆記試験と面接と実績や支社長の推薦で決まるようです。
たまたま同じ支社に私を含む3名の同期生が在籍。いわばライバルでもあります。支社ごとに毎年の合格枠もあるように聞いていました。

1年目不合格。1人の同期生がストレートで合格。これはしょうがないなあと納得。合格したのは頭のいい男。私は筆記試験で落ちていたらしいのです。
2年目。なんと残る2名とも不合格。ショックだったけど何か仲間がいて救われました。
3年目。さすがに今回はと思っていました。7割程度の同期生はすでに合格していたからです。そして同期生3人で自分だけ最後まで落ちるなんてみじめ。

結果を聞きに支社長室に1人ずつ呼ばれました。残る2人の同期生。私が順番はあと。同期生の喜ぶ声がもろに聞こえてきました。嫌な予感。
私はまたもや不合格。「俺の何が悪いんや?」頭の中は真っ白。周りの慰めの言葉など耳に入ってきません。絶望感。落ち込みました。
要は私は推薦されなかったってことか…!? より落ち込みました。
自分を取り戻すのに何日かかったでしょうか。
妻に話すと励ましてくれました。救いでした。

4年目。やっと合格。自分はもっと早く合格すると軽く考えていました。プライドはズタズタ。喜びというより「やっとか」ホッとした気持ちとまるで温情で通してもらったのではないかという卑屈な気持ちと入り混じって複雑でした。
とはいえ、ようやく私の入社コースのスタートラインとなる拠点長デビューです。苦労が報われた気持ちもありました。

今思うと、入社後、営業の実践期間は学生時代と社会人のギャップ。初の寮生活で故郷から離れた寂しさと共同生活の辛さで揺れていました。
そして同期生で成績を競争させられること、飛込み営業という常に自分から他人に働きかけていくしんどさでストレスの塊でした。

その後リーダー的な立場になり、教える側になって何をしていいか分からないまま飲みに連れ出されて超寝不足に苦しんだ時代。

いよいよ副拠点長として初めての本格的な管理職。更に分からないことだらけで多くを抱え込み、長時間労働とアルコール依存で身体を壊していった時代。

社会人になって自分の弱さが露呈しました。自分のことを考えるゆとりもなく走ってきました。でも考えれば、それでもまだ矢面に立っていないだけマシだったのです。

拠点長になってより一層自分のもろさが顕わになり、とにかく日々が目まぐるしく過ぎていきます。

 

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