生きづらいと感じてきたHSPの私 ~視点を変えればすべてが新境地~ 第12章-1



 

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記事 第12章-1  ~目次~

12.中学生から大学生時代

12-1

小学生から中学生に
・野球部に入部
・強烈な日々
・日々の心情
・中学生から高校生に

 

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12.中学生から大学生時代

12-1

・小学生から中学生に

小学校高学年になってくると女の子を意識したり、かっこをつけるようになっていきました。
なので、家では余計に窮屈さを感じるようになっていました。

それでも母親の顔色はやはり窺ってしまう。
相変わらず頭のいい子らと比較もされる。
だからどこか「いい子」でいないといけない、という思いに縛られている。

ちょうど小学6年生の時に祖母が亡くなりました。
母が一番泣いたのは驚きでした。
そこで母と姑の確執は終わりました。
隔離状態の祖母に晩ごはんを持って行くといういびつな状態は、ようやくなくなりました。

でも、母の神経症的性格が変わる訳ではありません。
日頃は優しい母ですが、思うようにいかないことや、不安になることがあると口に出さずに抱え込むようでした。
それが態度にでます。
私はHSP。すごく繊細です。
敏感に母の機嫌を察知しました。
そんな時の空気が重苦しい。それがしんどいのです。
「いい子」を装っている。それがしんどいのです。

そういう窮屈さに嫌気もさすようになっていました。
はじけたいような衝動が芽生え始めていたのです。
思春期、反抗期の始まりだったのでしょうか。

 

昭和54年頃。その時代、高校野球で甲子園に出た選手が、スターのように持てはやされていました。
女性のファンがキャーキャー言っている。
かっこいい。すごく憧れました。
野球が特別に好きでもなかったのに、急に興味を持ちました。
そのチヤホヤされているのがまぶしく見えたのでしょう。
「甲子園を目指そうかな」などと単純に思う。
興味津々でした。

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奥手で繊細な私。
でもモテたい、目立ちたい、一目置かれていたい、チヤホヤされたい。
リーダー的な存在になるのは苦手。さり気なく目立っていたいという感じです。
人より優越感に浸っていたかったのかもしれません。
はじけたいような感覚はそんな思いに転化していきました。

母親に散々頭のいい子らと比較もされたせいか、かしこさで目立とうと目覚めかけた時期もありました。
熟や通信教育を受けたこともあります。
でも続きませんでした。

 

またその時代、世間ではインベーダーゲームが一世風靡し始めていました。
私もなけなしの小遣いで、近所の駄菓子屋のインベーダーゲームにのめり込んでいました。

その頃、そのインベーダーゲームで、ある同級生と仲良くなりました。
いつも同じ時間帯に会うのです。
彼もインベーダーゲームに夢中。
気が合いました。
私よりも小さく、当時はかわいらしい感じのやつでした。

縁とは不思議なもので、後々に同じ中学で同じ野球部に入り、生涯の親友になっていきます。

 

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テレビの歌番組もたくさんありました。
アイドルが山口百恵やキャンディーズからピンクレディー、そして松田聖子へと時のスターが移り変わっていく頃でした。
サザンオールスターズもこの頃のデビューです。

片や矢沢永吉や横浜銀蝿という「ヤンキー」系のロック歌手も流行っていきます。

 

当時、巷ではそんなヤンキーが全盛期で、世間では中学の校内暴力や暴走族などが社会問題になり始めていました。

ヤンキーとはアメリカ人を軽蔑的に呼ぶ俗称で、その髪型やファッションを真似たところからきているそうです。
簡単に言うと当時の「不良」の少年少女のこと。

中高生は、まだ詰襟の学生服が主流の時代です。
ヤンキーは長い学ランにボンタンやドカン、バギーなどと言われるダボダボの学生ズボンをはいてたむろしていました。
髪型も全国ではリーゼントなども流行っていたようですが、関西ではパッチキと言われる剃り込みを入れ、角刈りやパンチパーマが流行っていました。

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ヤンキーでケンカの強い人が、学校や学年の中心人物になっていきます。
私はそんな「強さ」にも憧れていきました。
自分は全然強くもない。殴り合いもしたことない。
でも憧れる。
ちょうど当時、世界のカンフー映画界の大スターだった武術家でもあるブルース・リーにも憧れていました。
よくケンカが強い自分を妄想したりもするようになっていました。

 

中学生になった知っている先輩たちが、イカツくなってたむろしている。
みんな野球部らしい。
知っている先輩が、怖い違う世界に行ってしまったような不思議な感覚でした。
「中学来たら野球部においでや」
会った時にやさしく声をかけてもらって感激しました。
ご多分に漏れず、私はそんな先輩たちにも憧れました。
当時はかっこよく見えたのです。

中学生になる前、私はまだ身長140㎝を超えたくらい。
チビです。見た目も幼い。
でもいっぱしに大人に憧れる。イカツい先輩に憧れる。
強さに憧れる。
ヤンキーでケンカが強いことがかっこいいと思っていました。

小学生時代は一応目立つグループにいたと思います。
やんちゃなやつらともよく遊んでいました。
目立とうと意識していた訳ではありません。
無意識の領域です。
何の根拠もない優越感や競争意識がすでに芽生えていたのでしょうか。

今思えば、社会人になって、拠点長として仕事をした時に顕著になった「舐められたくない」という感覚や、自分がどうかではなく、他人にどう見られるかを気にする他人軸な感覚も、その頃すでに芽生えていたのかもしれません。

 

甲子園に憧れる。ケンカの強いヤンキーに憧れる。
野球はほぼ無知だし、ケンカなんかしたくもないし、強くもないのに憧れだけは強い。
さり気なく目立っていたい願望。
一目置かれていたい願望。
同世代の中で、自分の方が上だと優越感を持っていたかったのでしょう。
上だとか下だとか何の基準もありません。
あくまで感覚です。
やんちゃでもないのに、目立つポジションにはいたいという見栄、ある意味私の中での「世間体」とでも言うのでしょうか。
周りを気にするところは母親譲りなのかもしれません。

その願望を満たしてくれるのは、中学での部活「野球部」だと思っていました。

・野球部に入部

晴れて中学校に入学。
私が入学した公立の中学校は、当時の京都ではガラが悪いことで有名だったようです。
ケンカが強いことでも名が通っていました。

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その中学校はヤンキーだらけでした。
その巣窟が野球部だったのです。
いわゆる「番」を張るような人は、代々みんな野球部でした。

その野球部はかなり怖いらしい。
しごき、集金、ケツバット…。
いい噂は聞きません。怖い。
野球部の先輩は、見ただけでビビってしまう風貌の人がいっぱいです。
その年頃で1年違うと体格もずい分違います。
小学校から知っている1年先輩も、すでにイカツい風貌。
それなのに、普通の小学生の私が入部しようか悩んでいる。

強い憧れがあったからです。
中心的なポジションにはいたい、一目置かれたい。
心の奥底で芽生えていたはじけたい気持ち。

野球部の先輩たちは、学校の中ではやはり目立つ存在でした。
他の生徒も野球部には一目置いている気がする。
それがかっこよく映るのです。

やんちゃなやつらは、すでに野球部に入ると言っています。
自分はやんちゃでもないし、野球も詳しくないのに、目立つポジションにいたい、いなくてはいけない、と変な願望というかプライドがもたげてきて悩んでいる。
「うーん、どうしよ」。
悩んでいる時に、同じ小学校で別のグループだったやつらが野球部に入ると言い出しました。
一緒にインベーダーゲームをやっていたやつも野球部に入ると言うのです。
みんな野球が好きなやつらです。
どちらかと言えば、私の方が立場が上のように根拠のない優越感を持っていました。
「こいつらでも入るのか」。
ライバル心がメラメラと湧いてきました。
このままでは中学になって、彼らに上に立たれてしまうような焦る感覚でした。

自分の方が目立つポジションでいたい。
一種の強迫観念です。

 

結果、勢いで野球部に入部してしまったのです。

これが大きく中学時代を決定してしまいます。
いや、価値観も人生も変わったかもしれません。

野球部に入部した1年生は、確か12人だったように記憶しています。
その内の半分くらいが元々やんちゃなメンバーです。

他の小学校から来た人で、すでに学年の「番」は決まっていました。
強いことで名が通っていたこともあって、自然とそういう序列ができていました。
私なんかとは違い、すでに大人びていてすごみのある雰囲気でした。
その人も野球部。すごい人の仲間になったような優越感がありました。
でも、やんちゃなやつらばかりでは私は浮いてしまう。
しかし、入部したあとの半分は普通のやつら。
それでライバル心とは裏腹に、少し安心感も感じていました。

 

1年生は、まず髪の毛を1㎜以下の丸坊主にしてこいと言われました。
初めての丸坊主。
それまでは、普通の小学生らしいデビュー当時のビートルズのような髪型でした。

散髪屋で1㎜にしました。恥ずかしい。
でも、まだまだ丸い形の額に、少し剃り込みも入れてもらいました。
それだけでかっこよくなった気分もありました。
母親には心配されましたが。
心配をかけてはまずいという意識もありましたが、はじけたい願望の方が強かったのだと思います。

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そして野球部での最初の洗礼。

1年生全員、丸坊主でそろいました。
次の命令。
先輩から好きな女の子を決めてこいと言われたのです。
何のことかとザワザワしていると、発声練習をするらしいのです。
好きな女の子の名前を、グラウンドの端っこから叫ぶらしいのです。

そんな恥ずかしいことをしたことはもちろんありません。
その中学の学区は、いくつかの小学校から入学してきます。
同じ小学校出身だけじゃない。
入学したてで、まだ顔と名前も一致しない人もいっぱいの頃です。

好きな子と言われても、何がなにか分からない。
野球部に入部するもの同士でいろいろ話しました。
「おまえ、誰にすんねん?」「誰を言うねん?」。
同じ女の子で重なると恥ずかしいからです。
そんな話もしながら1人の女の子に決めました。
早い者勝ち。

 

本番の時。
1年生全員がグラウンドの端っこに並ばされます。
興味本位でけっこう人だかり。
それをグラウンドのもう一方の端っこで、先輩が聞こえるかどうか確認しています。
聞こえたら手を挙げてくれるのです。
とにかく恥ずかしい。頭の中は真っ白です。
1番目のやつが叫びました。
なかなか手が挙がらず何回も叫んでいます。
他人事なら笑える。
でも、もうすぐ自分が叫ばないといけません。

とうとう自分の番。
まだ声変わりもしていない甲高い声で叫びました。
「〇〇さん、好きや~っ!」どこかためらいがあって腹の底から声が出ません。
私も何度も叫ばされました。
やけくそです。
やっとのこと手が挙がりました。
繊細な私に、この辱めは強烈に心にすり込まれました。

それで終わりではありません。
その翌日の休憩時間、先輩の付き添いで、叫んだ名前の女の子に直接告白に行くのです。
大勢いる教室の中です。
「〇〇さん、好きです。僕と付き合って下さい」。
まだ小学校から出てきたばかり。あどけない。
付き合うとは何をすればいいのかさえ分かりませんでした。
何で野球部なんて入ったのか。
悔やんでも遅い。もう辞められません。
途中で投げ出して辞めることを「ケツワリ」と言います。
当然バカにした言葉です。
もし辞めたら、その後の3年間は「ヘタレ」「ケツワリ」のレッテルを貼られてバカにされ、悲惨な運命になると聞いていました。

告白した女の子は、なんとうなずいて受けてくれました。
ホッとしたのと、恥ずかしいのと、これからどうしていいか分からず、またもや頭の中は真っ白になりました。
そもそもほんとに心から好きとかではない。
まともに話したこともない相手です。

翌日から、その子にどう対応していいのか分かりませんでした。
恥ずかしさが先立つ。モテたいはずなのに、実態はうぶ。
いざ彼女ができたら何がなにか分かりません。

周りからはやし立てられて、何度か一緒に帰りました。
緊張MAX。何を話していいか分かりません。
意識すればするほど言葉が出てきません。
手紙の交換も何度かはしましたが、恥ずかしい。
何を書いたか全く覚えていません。
そのうちどうしていいか分からな過ぎて、よそよそしくなっていきました。
結局、その「恋」は自然消滅しました。
後味が悪すぎる。
気まずくて、顔を会わすのが嫌で、できる限り避けてしまうようになっていました。

その後、その女の子は野球部のやんちゃな同級生と付き合い始めました。
ホッとしたのと、その時になってもったいないことをしたような後悔もしたのを思い出します。

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・強烈な日々

同じ学年ですでに決まっていた「番」。
一目も二目も置かれている。
ケンカの強い序列もある程度できている。
私は当然その序列には入っていませんが、同じ野球部というだけで何となく優越感がありました。
虎の威を借る狐みたい。
希望していた通り、目立つグループには「所属」した。
そこまでは何とかよかったのですが。

 

中学は弁当持参なので、小学校時代の「給食」の恐怖からは解放されました。
やっと憂鬱な日々が終わるかと思いきや。

入部して優越感だとかのんきなことを考えられたのも初めだけ。
野球部に入部したことは、次の恐怖の始まりでした。
自ら飛び込むなんて。
丸坊主や好きな子の名前を叫ぶなんて、序章に過ぎませんでした。

先輩への独特の挨拶。
どこで会っても大声で言わなければなりません。
練習中も独特の言葉を大声で発声し続けます。
声が小さかったり、止まったりすると、怖い先輩の怒鳴り声がします。

自由だった小学生時代から、完全な縦社会に入ってしまいました。
慣れない部活生活の始まりです。

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それでなくても毎日怖くて緊張しているのに、更に怖かったのは「ケツバット」「しごき」「集金」「ケンカ」です。
今の時代なら大問題になることばかりです。

 

まずはケツバット。
最近、緊張感が足りないという名目で先輩から「今日はケツバットな」と告げられます。
ものすごく怖い形相で言われる。
それだけでも怖いのです。

入部してしばらくしたら、初めの1発がありました。
1年生が野球部のクラブBOX前に並ばされます。
ケツバットはそのBOX裏で実行。
並んでいるところからは見えません。
心臓のバクバクが止まりません。
いったいどんなものなのか。
想像もできませんでした。

初めに行ったやつ。
奥から「構えろ」とか聞こえてきます。
そして「バズッ!」鈍く重い大きな音がしました。
そいつがBOX裏から出てきません。
どうなったのか。余計不安になります。
次に行ったやつ。
「バズッ!」と聞こえた瞬間、お尻を震えるように触りながら、暴れるように飛び跳ねてグラウンドに飛び出していきました。
順にケツバットされ、痛すぎてうめくやつ、痛すぎて泣いてるやつ、いろいろです。
みんな暴れるように飛び跳ねていきます。

自分の順番がまわってきました。緊張は最高潮に。
定位置に立たされ、中腰です。
「ケツを突き出せ」と言われました。
バットを何度かゆっくりお尻に当てて当てる場所を調節されます。
怖すぎる。
そして振り上げてフルスイング。
「バズッ!」。
当たった瞬間、あまりの衝撃と痛みで倒れこみました。
それでもじっとしていられる痛みではありません。
ジタバタ暴れたと思います。
先輩に「走って来い」と言われ、必死で立ち上がってグラウンドに出て行きました。
飛び跳ねてたやつの気持ちが分かりました。
中学生とはいえ、フルスイングはたまったものではありません。
下手したら大けがです。

その後、何日かは痛くてまともにはイスに座れません。
お尻を鏡で見ると、バットの型がくっきり付いています。
始めは真っ赤。そのうち青黒くなっていきます。
その1回で、すでに縦社会の恐怖は叩き込まれました。
もちろん、家でそんなことは言えません。
何もなかった振り。

結局、1年間で13~14発くらいケツバットを受けたでしょうか。
昔はもっとあったとは聞きましたが。
痛みが癒えないうちに、またやられたときはたまりませんでした。
毎日、部活の時間が近付くと、先にBOXに行っている先輩の様子を教室から見ては「今日は大丈夫かな」と恐る恐る様子を窺います。
野球なんかより怖さが先です。
ビクビクする日々でした。
そろそろケツバットがされるんじゃないかと噂が流れると、尻側がキルティングでできたスライディングパンツをユニフォームの下にはき、更に後ポケットには分からないようにタオルを入れたりしたものです。
気休めに過ぎませんが。

 

日頃の練習ですら、繊細な私には苦痛でした。
緊張の連続です。
練習時間が早く過ぎるのを、祈るような気持ちでいました。
1年生は練習時間中、キャッチボールやノックを受けたりはあるものの、2-3年生が中心、大半はボール拾いと発声です。
ボール拾いも全力疾走で行かないといけません。
発声も必死です。

真夏なんかは普通にしてても暑いのに、当時は練習中に水を飲むなんて許されない時代でした。
根性論です。
汗だくになり、喉の渇きも限界を超えます。

練習が終わると、近所の氷屋に大きな業者向けの氷を買いに行かされます。
いくつかのバケツに分けて水を注ぎます。
先輩らがゴクゴク美味しそうに冷えた水を飲む。
1年生はじっと並んで見ている。

先輩たちは暑くて、その氷水で顔や腕を洗ったりもします。
先輩の「ええぞ」の号令で1年生にもその氷水が開放されます。
まるでエサを食べるのを「待て」と言われている犬のようです。
すでに汚れている水。でも喉の渇きは限界を超えています。
その汚れた氷水でも必死でゴクゴク飲んでいました。

 

「柔軟」と呼ばれるしごきも定期的にありました。
1年生が対象です。先輩たちは少し参加する程度。
あとは指示と監視です。
学校の廊下でやることもありますが、時々近くの寺に行きました。
寺の中に何百段かの長い石段があるのです。
そこで、うさぎ跳びやリレーと言われ延々と走らされたりなど、メニューは「豊富」でした。途中で吐いたり、泣いたり、倒れたり。
いじめか体罰か。
手足がもうどうにも動かないくらいになります。
当時は多くの学校やどんなスポーツでも、スポーツのためのメンタルや技術論は後回しだったのではないでしょうか。
根性第一。いわゆる「体育会系」。
音を上げることもできません。
地獄のようでした。

更にその寺から学校への帰り道に、アスファルトでできた下りの坂道があります。
数百メートルほどでしょうか。長い。
そこを1年生は「イモムシゴロゴロ」と言われて、寝転んでゴロゴロ転がって競争させられます。
何人もが転がりながら吐いている。
もう吐きすぎて出るものもありません。
ケツバットと同じく恐怖でした。

 

「集金」と呼ばれるものもありました。
先輩がタバコを買うための金集めです。
100円単位でしょっちゅうありました。
昼飯代で親からもらったお金から出していました。
昼飯をまともに買えない時もあったものです。

ひどい時は、1人10,000円持ってこいってこともありました。
何やら野球部の怖いOBがバイクを買うとか、ディスコに行くための資金集めみたいでした。
冗談じゃありません。腹が立ちました。
でも歯向かえる世界ではありません。
もうドップリ野球部の狭い世界に浸かっていました。

縦の序列は恐怖で叩き込まれている。
年齢的にも世間がどうとか、そんな判断力はありませんでした。
そして、そんな大金はあるはずもなし。
悩んだ挙げ句、夜遅く親の財布から抜き取ったことがあります。
細かく家計簿を付けている母親のサイフはムリ。父親のサイフからです。
すごい罪悪感と見つからないか不安でいっぱいでした。

 

最後は「ケンカ」です。
直接私がケンカをするということではありません。

野球の試合などでは、相手チームのヤジなどで野球どころではありません。
夏の大会が終わり、3年生が引退してからより激しくなりました。
ケンカっ早くて強い先輩が2年生にも何人かいます。その中でも2年生の「番」だとされていた人が一番ケンカっ早いのです。
試合でケンカになることはしょっちゅうでした。
相手のヤジに反応します。
普通のケンカは言い合いから始まりますが、その先輩は違います。
鉄の爪のスパイクで、平気で相手の顔面をいきなり蹴りまくる。
バットで頭を狙っていく。ヤクザのケンカのようです。

他県の修学旅行生が観光バスからからかってくると、近くの看板を持ち出してきてバスの窓ガラスをいきなり割ってしまったり。相手はビビってしまいます。
もちろん警察沙汰。
よく他の中学の「番」とのケンカも耳にしました。
他校にもその強い人の名は有名でした。
やることがむちゃくちゃです。

巻き込まれないうちはすごいなと思って見るだけですが、何度か巻き込まれかけました。
夜にある先輩から電話がかかってきて「今から◯◯中のやつが20人ぐらいくるから、おまえもバット持って集まれ」と言うのです。
「番」の先輩は後輩にそんなことはしません。
その他のやんちゃな先輩からの命令です。
「ケンカって」と震え上がりました。怖い。
当時はまだケイタイ電話なんてなく、家に据付けの電話です。
親にもなんて言えばいいのか頭はパニックでした。
ほんとは絶対行きたくない。

でも行かないと、それはまた大変なことになる。
ヘタレ扱いもされる。
親には「ちょっとみんなと練習してくる」と言って出ました。
かなりビビっていました。
そんなケンカなんかしたことない。
ボコボコにされて大ケガをしたり、警察沙汰になるのではないか。
恐れました。
結局、相手が来ず、事なきを得たのですが。

そんなことが何度かありました。
毎日、家に帰ってからも、まだまだビクビクの日々でした。

 

・日々の心情

1年生のうちは本当に怖くて辛い日々でした。
2年生になって、ようやく後輩がやってきました。
やっと先輩です。
3年生は夏の大会が最後なので、あまり口を出さなくなりました。

自分たちが主役です。
ようやくケツバット、集金、しごきから解放されました。

私もやんちゃぶってタバコには手を出し、何度か先生が家にも来ました。
修羅場でした。かなり母親には心配されました。
「いい子」を演じてきただけに、自分も罪悪感はありました。
だから親には相変わらず、とことんの反抗はできませんでした。

先輩からもらった学ランやボンタンを、家から堂々と着ることができず、登校時にはき替えたりしてかっこをつけていました。
何となく情けない気分でしたが。
私にとってはやんちゃすることは、親への裏切りみたいで嫌な反面、学校ではいきがっていたかったのです。

望んでいた通り、野球部の傘の下、一目置かれるポジションにはいたと思います。

 

3年生に言われて、ケツバットは何度か後輩にしていたようです。
回数は激減したと思います。
集金も私たちの年代では、ほとんどしている人間はいなかったと思います。
ただ「柔軟」と呼ばれるしごきは、私たちの時ほど激しくはないものの、伝統として残っていました。ただ「イモムシゴロゴロ」はなくなりました。

私たち2年生の「番」を張っている人は、どちらかと言えば硬派で、他校のヤンキーとケンカはするけど、弱いものいじめはしないタイプだったからです。
ケンカで夜に呼び出されることも、その後はありませんでした。

練習もボール拾いや発声ばかりではなく、全般に参加するようになりました。
上手いやつは、3年生にも交じって実戦の練習をするようになりました。
私はと言うと、野球をほとんど知らないまま野球部に入ってきています。
まだまだ下手くそ。

他の仲間はある程度野球に親しんできている上に、帰宅後も時々集まって練習したりしています。
私は群れたり、ペースを乱されるのが苦手で参加していませんでした。
それでも下手くそなりに、少しずつ上手くはなっていました。

でもやはり3年生の引退後、レギュラーには入れず。
1年生で体が大きく野球の上手い1年生の「番」と思われていた後輩が入ったりしました。その後輩には舐められていたと思います。
自業自得だけど、何とも恥ずかしいというか、辛い思いでした。
目立ちたい、一目置かれたい、優越感を感じていたいと無理して入って苦しんできたのに。
野球部の中ではみじめなポジションでした。

一緒にインベーダーゲームをやって、仲良くなったやつとはいつもつるんでいました。
よくもめたりもしましたが、言い合える関係になり、やがて親友と感じるようになっていきました。

その彼もあっという間に私より身長も抜き、野球も上手くなり、先輩にもかわいがられていました。
小学生時代に持っていた心の中の「優越感」は形勢逆転していきました。
彼の方がずっと学年でも野球部でも中心的な人物になっていました。

 

今でも鮮明に覚えている中学時代の屈辱が、2つあります。
1つ目は、ある試合の時です。
試合に出してもらうことになり、次のバッターとしてネクストバッターサークルで軽く素振りをしていた時です。
監督が近寄ってきて私に「バッター交代な。今日は勝ちたいから」と。
悔しさと恥ずかしさで呆然としました。

2つ目は試合に出られずベンチで座っていた時、攻守交替で守備から戻ってきた嫌いなやつに「おまえはええねえ、ゆっくりできて」と嫌味を言われました。
カーッときて立ち上がりましたが、仲のいい友人に止められました。
ものすごい屈辱感でした。

繊細な私には強烈に響きました。深く傷ついたのです。
自ら苦痛な世界に飛び込んでまで見栄を張ってきたのに。
モテたい、目立ちたい、一目置かれていたい、チヤホヤされたい、優越感を感じていたい。
そんな動機でがんばって耐えてきたのに。

 

時代はヤンキー全盛期、校内暴力も真っ只中でした。
私の中学校も激しかったものです。
校内中の窓ガラスを割ってまわったり、先生に大けがを負わせる事件もありました。
タバコを吸うのはかわいいもので、私の年代からはシンナーもヤンキー連中の中で横行していました。

 

ヤンキーに憧れ、やんちゃな連中とも遊んではいました。
多少のかわいいやんちゃはするものの、自分にはやはり水が合わない世界でもありました。
親への反抗心もあるものの、どこか裏切ってはいけないという自制心も働いていました。
仲のいい友達とつるんでいても、時々なんかノリが違うなと感じることもあるのです。
それでも迎合してしまう。自分を抑え込んでいました。

そんな自分が嫌でしょうがない。
先程の屈辱にしてもいつまでもくよくよしたり、上手く行った場面を妄想してしまう。
ケンカも勝った場面を妄想してしまうのです。妄想癖がついていました。

上手く行った場合の妄想とは逆に、最悪の場面をイメージして先に慣らしておく癖もついていました。
その時になってショックを受けるのが怖いからです。
だから常に不安になるのかもしれません。

まだまだ幼い中学生の私には、あまりにも強烈な経験が続いてきました。
そのせいで、最悪の場面をイメージして、他人のことのように考える練習も無意識にしていたと思います。
自分の中にもう1人の人間を設定するのです。
そんなことをしているうちに、自分が何者か分からなくなるような錯覚をすることもありました。
繊細な私の思春期は、あまりにも激しいことばかりでした。

 

野球部に入って、両親、特に母親はかなり心配していたようです。
不良になっていくのではないかと。
心配させたくないとは思っていました。
まだまだ母親の顔色も気にはしています。

ただそもそも、もろのヤンキーにはなれません。
もろのヤンキーになるのも素養ってものもあります。
私には性格的にムリ。
根は真面目だから。そして親の目を気にして自制心も働いているから。
やんちゃなことには、好奇心バリバリなんですが。

そんな葛藤もしていました。
それでも親の目がうっとうしくて家の中が益々窮屈になっていました。
親と一緒に外出するのが恥ずかしいと感じる年頃でした。
親とはほとんど話もせず、ぶっきらぼうになっていました。

 

・中学生から高校生に

3年生になり、野球部の苦痛からは解放されました。
インベーダーゲームから仲良くなった親友も、やんちゃな風情に。
自分もクラスや学年で目立っていたいと調子に乗っていました。
その親友や、やんちゃなやつらともつるみながらも、どこかノリが違うという違和感も常に持っていました。
そうして中学の3年間は過ぎて行きました。

で、あっという間に高校受験も視野に入って来ます。
高校は最低行かないとという意識はありました。
どこかとことんのやんちゃには、やはりなれません。
根は真面目。
でも担任の先生からは冗談だったのでしょうが、すし屋の丁稚を頼んでやろうかとか、いじられました。

日頃は授業中もムチャクチャでした。
授業なんか聞きもせず、友人と遊んだりしていました。
何度か先生にしばかれたりもしました。
当時は体罰ありです。
しばかれれば、おとなしくなる。
私は先生に歯向かうとかはできませんでした。
かわいいもんです。
授業中、バカばかりしていても、最低限の試験勉強はしていた気がします。

そして受験。
当時の京都の公立高校は運よく、落ちたら恥と言われる倍率で、何とか通ったのです。
そして中学を卒業。
多くの友人とも離ればなれになります。
ヤンキーの世界は、私には水が合わなかったと思います。
ただ目立つグループにいたかった。
人よりかっこよくいたかった。
目立つことで優越感を感じていたかった。

やはり他人の目を気にしていたのでしょう。
でも楽しいこともたくさんありました。
多少なりとも心が強くもなったと思います。
価値観も変わっていきました。
すごい世界で耐え抜いた、すごい仲間の中にいた、という何とも奇妙なプライドはできていました。

 

 

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生きづらいと感じてきたHSPの私 ~視点を変えればすべてが新境地~(はじめに)

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