生きづらいと感じてきたHSPの私 ~視点を変えればすべてが新境地~ 第11章
前章: 生きづらいと感じてきたHSPの私 ~視点を変えればすべてが新境地~ 第10章
記事 第11章 ~目次~
11.幼少期の振返り ~生きづらさのルーツ~
・生きづらさのルーツ
・私が生まれた時代
・繊細な子
・神経症的性格の母
・母と祖母の確執
・母に捨てられる恐怖
・父の存在
・小学生になり ~「給食」と「いじめ」~
・小学生になり ~「かしこい子」と比較され続けて~
・幼少期の振返り
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11.幼少期の振返り ~生きづらさのルーツ~
・生きづらさのルーツ
社会人になり、激しい仕事に就いたこともあって、生きづらさをより感じるようになりました。営業の数字に追われ、長時間労働にパワハラに苦情にと辛かったことばかりが思い出されます。
でも仕事の激しさだけが生きづらさの理由ではないとも感じていました。
同じ仕事をしていてもイキイキしている人もいるからです。
私はというと、日々不安と憂鬱にさいなまれました。
毎日まるで何か大変なことが起こるかのような不安を感じていました。
なぜそんな思いになるのか。
仕事が「辛い」の前に私自身に問題があるのではないか。
初めは漠然と感じていました。
30代になって、管理職にもなり、そのうちにいろいろなことが行き詰まっていきました。
なぜ自分がこんなことになるのか。
沸々と疑問が湧いてきたのです。
なぜ生きづらさを感じるのか、なぜ常に不安がつきまとうのか、なぜ行き詰まってくるのか、なぜ自分を隠すのか、なぜ上司に構えてしまうのか、なぜ形から入るのか…等々。
そんな疑問を持ったまま、年月を経てやっと自分と向き合うようになりました。
自問自答をくり返していた頃「加藤諦三先生の本(誰にでもいい顔をしてしまう人)」に出会ったのです。衝撃的でした。
それまでの励ましのような内容の心理本ではなく、グサグサ突き刺さるような分析がされていました。
10章で引用したように、行き詰まる理由はどうやら「誰にでもいい顔をしてしまう」ことだと理解できました。
いわゆる八方美人。
その心理状態だとどんなことになるのか、分かりやすい事例とともに語られている。
自分にもたくさん当てはまっていました。
更にその「誰にでもいい顔をしてしまう」ようになる原因は何か。
その事も見事に分析されている。
そこが一番知りたかったところです。
心にストンと入ってきました。
その原因は、幼い頃の親とのふれあいの中で培われたと言うのです。
親から心理的に責められたり、嫌われたり、否定されたり、拒否されたり、脅されたり…。
トンボなのにカエルになることを要求される。
親が自らの理想を子どもに押し付けてくる。
子どもを思い通りに動かそうと脅す。
そのうち子どもは心の奥底に「さびしさ」「恐怖心」「憎しみ」の感情を宿していく。
その感情はやがて「ありのままの自分では受け入れてもらえない」のではないか、「他人に好かれなければ生きていけない」のではないかという思いに結びついていく。
それが「誰にでもいい顔をしてしまう」という他人軸になってしまうメカニズムだと言うのです。
そこから私は自分の幼い頃を思い起こしてみました。
自分の生い立ちや性格を振り返ったのです。
心の中で眠っていたいろいろな記憶が甦ってきます。
更に幼い頃のアルバムなんかも見直してみました。
「繊細な子やったな~」。
懐かしさとともにどんどん甦ってくる。
記憶をたどって思い起こすうちに、幼い時からすでに生きづらさを感じていたことに気づきました。
考えたら、社会人になるまでもずっと生きづらいという感情を片隅に抱えてきたのです。
元々繊細だった私。
そんな私が親とのふれあいや学校での様々なできごとを通して、生きづらいという感情を形成していく。
ここからは、そんな私の幼い頃から社会人になるまでの心の変遷をたどっていきます。
・私が生まれた時代
昭和初期から戦中戦後までの日本は暗いできごとが多かったと理解しています。
しかし高度経済成長期の波で明るい時代が到来。
正に、私が生まれた昭和40年代初頭の日本は高度経済成長期。
東京オリンピックが終わり、日本の人口が1億人を突破し、そして万博博覧会や札幌冬季オリンピックの開催は経済成長の象徴でした。
白黒テレビがカラーテレビに変わり始めた時代。
大量生産・大量消費の時代。
長寿番組、サザエさんもこの頃に放映開始でした。
アニメと言えば、スポ根ものが一世風靡をしていました。
タイガーマスク、巨人の星、アタックNo.1…等々。
世の中は根性だ根性だ気合いだ気合いだと精神力で何とかなるという風潮でした。
学歴社会も益々激しくなっていった時代です。
ある意味活気がある時代だったのかもしれません。
そんな時代背景の下、私の家は一般的な家庭でした。
父と母。子どもは姉と私。そこに父方の祖母(母にとっては姑)の5人家族。
私たち兄弟は父母が30代後半の時に生まれました。
当時では遅く生まれた子。
父母はともに昭和一桁の生まれ。戦争も体験しています。
父はサラリーマン。おおらかな優しい人。でも亭主関白。
母は専業主婦。真面目な人。世間体を気にする人。
従順に父を立てていました。
形はごくごく一般的な普通の家庭でした。
母の神経症的性格を除いては。
・繊細な子
私の幼少期は、明るくちょろちょろよく動きまわる落ち着きのない子だったようです。
その反面、「繊細な子」「感受性の強い子」「おとなしい子」「恥ずかしがりな子」「気が優しい子」いろいろな表現でも言われました。
当時、自分では何のことを言われているか分からないまでも「批判」のように感じて嫌だった記憶があります。
生まれながらにして繊細で敏感。今で言うHSP気質。
確かに一人で元気よく遊んでいても、近所の大人が話してきたりすると恥ずかしくて黙ってしまう。
気おくれしてしまう。
幼いながらにいろいろ感じ取っていたのでしょうか。
近所には女の子ばかりでした。幼くても恥ずかしい感覚はありました。
姉にくっついてまわっては「ままごと」にも参加していたものです。
「ままごと」ができないと遊んでもらえないから。
面白いとは思わないけど寄せてもらっていました。
女の子ばかりの中で、居場所を探していたのでしょう。
自分の使っていた箸が折れても、自分の髪の毛を切っても、寂しくて悲しくて捨てられないということも多々ありました。
自分の分身のように感じてたのかもしれません。
内緒で引出しの奥に隠したりしたものです。
親に面白半分で「おまえは橋の下で拾ってきた子や」と言われると真に受けて、夜に涙で枕がびちょびちょになったこともあります。
食べ物の好き嫌いも激しかったものです。
特に肉や魚などの生臭いものや、魚にお頭がついてたりするともう怖くて気持ち悪くてダメでした。微妙な見た目や臭いに敏感でした。
また、幼稚園のお弁当の話もあります。
幼稚園にはお弁当を持って行きますが、真冬はオイルヒーターの上で一斉にアルミ製の弁当箱を載せて温めるのです。
今では便利な電子レンジや保温容器などもありますが、当時はそんな感じでした。
温まってくると、部屋中にいろいろなおかずの臭いが混ざって漂うのです。
私は気持ち悪くなり、自分の弁当も食べられなくなっていました。
ましてや他人の家の弁当なんて絶対に食べられません。
自分の母親以外の人が作ったと思うだけでダメでした。
だから当時はよく近所のパン屋で、パンを買って持って行った記憶があります。
こんなエピソードには事欠きません。
ほんと繊細、超デリケートだったと思います。
・神経症的性格の母
母は一生懸命私たち子どもを愛してくれました。
日頃はとても優しい母です。
でも神経症的性格のためにその愛も時に歪んでいました。
「神経症的性格」。特徴を調べると
第一に内向的で自己内省的、第二に小心、敏感、心配性、小さなことにくよくよしやすい、第三に完全主義、理想主義、負けず嫌いなどの特徴
とあります。
すべてがこの通りかは分かりませんが、異常なほどに世間体を気にしていました。
異常なほどに心配性でした。
異常なほどにコンプレックスの塊でした。
他人に家の中を見られることを嫌い、自分の本音をとことん隠していました。
当時、繁華街へ出かける時や特別な場所に行くときは「よそいき」の格好とよく言いました。
漢字で書くと「他所行き」。
いつもとは違う場所に行くための特別な格好をするという意味です。
母は他人には常に「よそいき」の姿しか見せまいとしていたように思います。心にバリアをしているようなものです。
父は若い頃、友人や会社の同僚を頻繁に自宅に招いては、飲食をして楽しんでいたようです。
しかし、結婚後はすっかり呼べなくなりました。
母が嫌がるからです。
母は他人に来られるとなると、すべて「よそいき」という鎧をつけていないと耐えられなかったのでしょう。
おもてなしをしなければならない。
よく思われなければならない。
粗相があってはならない。
ほんとの姿を見られてはならない。
すごく神経を消耗してヘトヘトになってしまうのだと思います。
そして心配症も人一倍でした。
常に物事をネガティブにとらえては心配していたように思います。将来のことを先取りしてはとり越し苦労をしていました。
お金のことも、先で何があるか分からないからと日頃から倹約してはコツコツ貯めようとしていました。
物事の心配だけでなく、例えば外出時に家のカギを掛けたか心配で何度も戻って確認したり、しまいには擦って確認していたほどです。
逆にカギが開いてしまうのではないかとさえ感じたものです。
そして母は自分のことを卑下していました。
コンプレックスの塊だったように思います。
世間にどう思われるかをすごく気にしていました。
高学歴の人やいわゆる家柄のいい家族への羨望の眼差しも強烈でした。
あの人は東大を出た、あの家は昔からの名家だ、よくこんなことを口にしていました。
ある時、世間体を気にする母にひどく理不尽に怒られたことがあります。
4~5才くらいの頃だったでしょうか。
私が近所の同年代の子の家にいた時のことです。
たまたまその家のおばあさんが冷蔵庫を開けた時、前に立っていたのです。
ほんとにたまたまです。
なのに、そのおばあさんは近所で私のことを「人の家の冷蔵庫を覗きこんだ」と吹聴してまわったのです。
まだ幼稚園に行くか行かんかくらいの子が、冷蔵庫なんか見たいとも思っていません。
でもそれを聞きつけた母は、私に激怒しました。
「何で〇〇さんとこの冷蔵庫を覗いたんやっ。何でそんなことしたんやっ!」頭ごなしに大声で、すごい剣幕で叫ばれました。ヒステリックにです。延々とです。
母にしてみたらよほど恥ずかしいことだったのでしょう。私より世間体が勝っていました。
ただ私は何のことか分からないけど、ただただ恐怖だったことを今でもハッキリ覚えています。トラウマです。
そんな体験は誰しもあるかもしれません。ただ私には繊細に敏感にその恐怖がすり込まれました。
・母と祖母の確執
祖母は明治生まれの気骨のある女性でした。
祖父が早くに亡くなったこともあって、父たち三兄弟を戦中戦後と女手ひとつで育てた人です。
その祖母の勧めもあって父母は見合い結婚。
長男である父は祖母と同居。
結婚と同時に母も祖母と同居となりました。
嫁と姑です。
母は昭和一桁生まれの古い感覚の人。
姑や自分の旦那には従うものと思っていたのでしょう。
しかし、母は新婚時代、祖母から事あるごとにいろいろ言われたようです。
神経症的性格の母はそのたびに「叱られている」「批判されている」「いじめられている」…とすべてネガティブに受け取ったのだと思います。
今で言う、パワハラ・モラハラを受けている感覚でしょうか。
本人の中でそんな相手からの批判は屈辱だったのでしょう。ものすごく辛いことだったのでしょう。
ものすごく恐怖だったのでしょう。
母はおそらく慢性的に心が病んでいたのだと思います。
情緒不安定。
ずっと同じ屋根の下に相手がいるのですから。
そして母は祖母を避けるようになり、無意識な敵意を持っていったのだと思います。
それは私がパワハラを受けたりした時の感覚に似ています。
だから分かる気がするのです。
避けてしまう感覚や無意識に敵意を持っていく過程が。
母の影響なのかDNAなのか。似ているのです。
私が物心ついてきた頃、すでに祖母は隔離されていました。
そこに至る経緯は分かりません。
小さな一軒家。年老いた祖母は足も悪いのに2階の1部屋に追いやられていました。
2階から下りてきた5畳ほどの部屋は公共スペース。
外への出入口までの通路です。トイレもそこにあります。
私たちがいる「奥」と呼んでいた部屋は戸を閉めきり、カギまで掛けて徹底していました。
絶対祖母と顔を会わさないようにしていたのです。
晩ごはんはタッパーに入れてトレーに載せて私か姉が2階に持って行きます。
持って行った時に、何となく気まずかったことを覚えています。
祖母と「しゃべってはいけないのではないか」と感じていました。申し訳ないような気持ちもありました。
「ごはん、置いとくし」と言ってさっさと下りてくる。
そして母はことある毎に祖母の悪口を私たち兄弟に愚痴りました。
「自分は正しい、悪くない」が前提です。
あんなこと言われた、こんなことされた。
被害者感情を全部子どもにぶつけてきました。
過去のことを何度も何度も。
他人に自分を隠す母の性分からすると、子どもにしかはけ口がなかったのでしょう。
子どもながらに嫌な気持ちになっていましたが、母の肩を持つようにしないと母の機嫌が悪くなるようで、合わせていたように思います。
同じ家にいながら祖母を疎外しているいびつな関係に、重い気分を引きずっていました。
母からすると「やられた側」。
必死で逃げていたのでしょう。
でもやっていることは逆の虐待。いじめにも感じます。
そう思いつつも同時に、祖母へのイメージも吹き込まれるままに悪くなっていました。
いや、悪く思わないといけないと思っていたという方が近いかもしれません。
・母に捨てられる恐怖
母はよく泣いてもいました。もちろん祖母のことで。
そのたびに私は不安になりました。
ある時、祖母に何をされたのか母は嗚咽をあげて泣いていました。不安になって、慰めようと近寄った時、母は私に叫びました。「あんたを置いて出ていくっ。もうあんたなんかいらんっ」。
何がなんだか分からないまま、私は「捨てられる」ととっさに恐怖心を抱きました。
私も泣きじゃくって「出ていかんといてぇ」と母にすがっていました。
今思えば、私は本当に母のはけ口だったのでしょう。
私がすがったことで癒されていたのでしょうか。
ある意味無意識な標的にされていました。
そんなことが何度もあったと記憶しています。
私は家の中が居心地の悪い場所でもありました。
このいびつな状態が私の不安を煽っていたのです。
明るくしていてもどこか不安で居心地が悪い。
この頃から身に付いてしまったことのように思います。
母の顔色をうかがうようになっていたからかもしれません。嫌われたら自分は捨てられるのではないか。
無意識の領域で恐怖を感じていました。
母の気に入るような自分でいなければならない。
そう感じるようになっていったと思います。
その頃、おねしょを頻繁にしました。
繊細な私の精神状態を表すようです。
私自身も情緒不安定だったのかもしれません。
ずい分母に心配されましたが、心配されればされるほど罪悪感が強化され、おねしょは余計くり返してしまったのです。
ただ、居心地の悪い家庭と言っても、母を嫌いだった訳ではありません。
大好きです。甘えたいのです。もっと受け入れて欲しいのです。
だからこそ母の機嫌をうかがってしまうようになってしまったのでしょう。
母の神経症的性格に翻弄されていました。
・父の存在
父は優しくおおらかでした。
おおらかなところは母とは真逆です。
父は母と祖母のことを静観していました。
どちらの肩も持つわけにはいかなかったのでしょう。
家の中での別居状態が苦肉の策だったのだと思います。
子どもながらに感じ取っていました。
父にはよく銭湯に連れてもらいました。
世間では自宅に風呂がある家はまだまだ少なく、近所には銭湯がいくつもありました。
我が家にも風呂はなく、銭湯通いです。
手をつないで歩いても歩幅が合わず、必死で付いていった思い出があります。
父がものすごく大きな存在に思えました。
父は怒らない。いつも受け入れてくれる。
真面目な父も家ではビールを飲み、陽気でした。
私にとって安らぎの場でした。
ただ父は亭主関白。
仕事から帰って座椅子に座ったらもう動きません。
テレビのチャンネル権も当然父。
あれとって、これとって、と身のまわりの世話も母と子どもたちでします。
そんな雰囲気を楽しんでいた気がします。
父は安らぎの場でありながら、同時に威厳も感じる存在でした。
・小学生になり ~「給食」と「いじめ」~
繊細な子はいよいよ小学生になりました。
男友達もできました。子どもの頃は単純です。
「同じ」ところを探します。
顔の形が似ている、足が毛深いなど何かが同じというだけで仲良くなったりします。
大人はどうでしょうか。
「同じ」ことより「違い」を探すくせがついている人のなんと多いことか。
そして違いを批判する。
私は繊細で人見知りもするものの、割と誰とでも仲良く遊んでいました。
そして目立ちたい願望もどこかにありました。
だからクラスメートの中でも中心的なポジションにはいたのです。
そんな私の小学校生活を苦しめたのは「給食」と「いじめ」です。
「給食」は母親の作ったおかずしか受け付けない超デリケートな私には地獄のような日々の始まりでした。
今では給食も小綺麗な器に手の込んだメニューで美味しいと聞きます。
当時ももちろん殺菌消毒もしてプロが作っていました。
給食を楽しみにしている子どももたくさんいました。
給食当番が白いエプロンをして、大きなブリキの容器を教室に運んでくる。
その容器も器もブリキで凸凹してたりする。
配給でも受けるように大量のおかずを一人ずつによそう。
その感じがもうダメ。清潔に思えないのです。
さらにおかずの臭いがしたら吐き気が止まりません。
えずいて涙が出てきます。
唯一食べられるのは、薄っぺらい食パンと牛乳だけ。
1年生の時の担任は若い女性の先生でした。
私がおかずを食べないことを許してくれません。
今と違って好き嫌いやアレルギーなど考慮されない時代。
栄養のバランスを考えられたものだから、食べ物を粗末にするものじゃないから、食べろと言う理屈は分かります。
でもダメなものはダメ。ムリなものはムリ。
1年生は昼までの授業。給食のあとはみんな帰る。
でも、私は残される。
とにかく食べるまで自席に座ったまま夕方までおかずとにらめっこです。
みんなも不思議そうに私を見ながら帰っていきます。
拷問です。今ならパワハラや体罰認定確実です。
その担任が休暇の日は、もっと年配の女性の先生が代役で来る。
その先生は輪をかけて怖い。
給食のおかずをスプーンですくって、ムリやり私の口に入れようとしてきます。
「食べなさい。ちゃんと食べなさい」その形相も怖くて怖くて、必死で顔を背けて耐え忍びました。
給食の時間が近付くと憂鬱で心臓がバクバクする日々でした。
毎年、学年が変わると担任も替わる。
そのたびに給食のことで不安でした。
「いいよ」と気持ちよく残させてくれる先生もいました。
何度も食べさせようとした上で残させてくれる先生もいました。それでも毎日となると、残させて欲しいと言いに行くのも苦痛です。
学年が上がるたびに怯えながらも知恵もつき、私はナイロン袋を持参して、人の目を盗んでナイロン袋にササッとおかずを入れて持ち帰るようになりました。
見つからずに隠せるか。毎日、ハラハラしていました。
隠せた瞬間、安堵感に包まれます。
こうして小学生時代はずっと「給食」で苦しみました。
「いじめ」も大きく影響しました。
繊細なくせに目立ってもいたい。
虚栄心でしょうか。
やんちゃな子どもも少なからずいる学校でした。
そんな子ともよく遊ぶものの、いじわるもしてくるのです。
叩かれたり、物を隠されたり、時には私の靴がどぶに捨てられていたこともありました。
カビの生えたパンが机に入れらていたこともあります。
抵抗しても収まらない。余計に面白がられるのです。
学校が恐怖な時期もありました。
・小学生になり ~「かしこい子」と比較され続けて~
母の世間体やコンプレックスのはけ口は、常に私を標的にしていました。
小学生になって以来、ことある毎に他の「かしこい子」「成績のいい子」を褒めちぎり、私と比較するのです。
「どこどこの〇〇くんはようできるんやてなあ。あんたもやったらできるのに」。
「どこどこの△△くんはすごいええ点を取らはったんやてなあ。ええなあ。あんたもそんな子やったらなあ」。
「どこどこの□□さんは京大卒なんやて。すごいなあ。あんたも目指しよし」。
「かしこい子」を褒めながら京都弁でネチネチ遠回しに責められる。
いや、ストレートの批判の方がまだましです。
すごく嫌な気持ちになっていました。
「あんたもやったらできるのに」も口ぐせ。
毎日毎日言われるとすり込まれていきます。
そのうち冗談で「京大目指すわ」って言うと大喜びです。
私は京大の意味があまり分かってなかったのですが。
逆に遊ぶ友達がやんちゃそうな子だと露骨に「あんな子と遊ばん方がええ」と言ってきます。それも私にとってはすごく嫌なことでした。友達を見た目で決めるのか。
また、昔の部落差別もまだまだ色濃く残っていた時代です。
友達の住んでいる地域でも遠回しに批判され、それが嫌でたまりませんでした。
・幼少期の振返り
幼少期を振り返ってきました。
元々繊細な私。
しかし神経症的性格の母のことを思い起こすと、DNAは争えないのか、それとも母を見てきた影響なのか、似ているのです。母もHSPだったのでしょうか。
母も生きづらかったに違いありません。
常に人の目を気にして自分を隠す、不安になる、形から入る…。
何とも似ているのです。
私は日々の暮らしの中で何でも繊細に、敏感に感じ取ってしまう。HSPという気質。
それ自体はいい部分もあります。
私は感性は豊かだと思います。
鳥のさえずりや風の音など、自然の美しい音を敏感に感じ取ったりします。
絵を描くことにも目覚めました。
日々いろいろなものを観察するようになったものです。
人の気持ちが酌めるようにもなりました。いいこともあるものです。
ただいろいろなものを感じ取り過ぎてしんどい、先取りし過ぎて不安になるのです。
そこに環境的要因とでも言うのでしょうか、様々なできごとが私の心を揺さぶっていきます。
幼い私は、母に捨てられるかもしれないと怯え、母と祖母のいびつな関係に心を痛め、周りの「かしこい子」と比較され続け、母の心のはけ口になっていました。
そんな私にとっては、家庭が居心地のよくないことも多々ありました。何とも重苦しいのです。
私が母の顔色を窺うようになっていたからです。
そんな幼い頃の体験で加藤先生の言う、心の奥底に「さびしさ」「恐怖心」「憎しみ」の感情は宿っていったのでしょう。
「ありのままの自分では受け入れてもらえない」のではないかということをくり返しくり返し感じ取りました。トンボなのにカエルになることを要求されている感覚。
そしていわゆる「いい子」を演じるようになり、やがて「誰にでもいい顔をしてしまう」素地が出来上がっていったのだと思います。
更に給食やいじめといった学校でのできごとも、日々の生きづらさを助長するものでした。
そんな幼少期もやがて小学校高学年になり、思春期の始まりとともに反抗期もやってきます。母の偏った感覚に反発も覚えるようになっていきました。
次章: 生きづらいと感じてきたHSPの私 ~視点を変えればすべてが新境地~ 第12章-1
■シリーズ目次
生きづらいと感じてきたHSPの私 ~視点を変えればすべてが新境地~(はじめに)
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