生きづらいと感じてきたHSPの私 ~視点を変えればすべてが新境地~ 第10章
前章: 生きづらいと感じてきたHSPの私 ~視点を変えればすべてが新境地~ 第9章-
記事 第10章 ~目次~
10.加藤諦三先生の本との出会い ~私の生きづらさとは~
・引越しと銭湯通い
・「加藤諦三先生の本」との出会い
・探していた内容
・なぜ生きづらいのか
・生きづらさを解消するには
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10.加藤諦三先生の本との出会い ~私の生きづらさとは~
・引越しと銭湯通い
新年度は同じ支社管内で異動になりました。また引越し。
実家からは少し遠くなりますが、代用社宅のマンションはずい分グレードアップしました。
新しいマンションで1DK。今回は2~3件の物件から選ばせてくれました。
風呂・洗面・トイレも別々です。4階で景色もすばらしい。
前々任地とはあまりにも違い、出世したような感覚になりました。
前年度、仕事がどんなに悪い状況でも途中から変わることができるんだという体験ができました。
少し自分自身も変わっていけるんじゃないかという自信めいた兆しを感じていました。
でも自分の中でストンと来るものはまだありません。
なぜ生きづらいのか、なぜ不安や憂鬱につきまとわれるのか、なぜ何もかも行き詰まってきたのか…。
まだまだ心は病んだままです。そこから解放されたい。
そのためにはこの「なぜ」にしっくりくる答えが必要でした。
週末は少し遠くはなっても実家へ帰っては夜は外出し、歩きまわりました。
自問自答のくり返しです。
歩くと景色が変わって何となく落ち着いてはくるものの、モヤモヤは簡単には消えません。
そんな状態で新しく赴任した拠点は前任地と同じく職員が20人そこそこの在籍でした。
半数は20~30代の若い人たち。
着任して当初、退社申し出等少しゴタゴタはありましたが何とか乗り切りました。少し前任地で自信めいたものができたからか。
職員たちも概ね穏やかな人たちで安心しました。
新年度が始まって少し慣れてきた頃、少し周りを見るゆとりができました。
社宅近くに銭湯があるのが気に掛かり始めたのです。
無性に行きたくなって仕事帰りに行ってみました。
銭湯なんて何年ぶりか分かりません。小学生の頃に行って以来。
広い湯船にゆったり浸かると何とも癒されました。安らぐ。解放される気分。
いつも帰宅して追われるようにして急いで風呂に入る。
そんな慌ただしさを忘れる時間です。
そこからちょいちょい銭湯通いが始まりました。
週末は飲みに出て歩きまわる、平日は銭湯で癒される。
当時の私の静かなブームです。
・「加藤諦三先生の本」との出会い
自分と向き合う中で、本屋に行っては心理本を読み漁りました。
たくさん買い込んでも読みました。
でも何かしっくりこないのです。
多くの本が確かにいいことは書いている。でも何か心の底にストンとこない。
多くが「〇〇のときは△△してみよう」みたいな見出しで、私にとっては「それはそうやね」「それができたら悩まんよね」という感じでした。
ただ慰められている感じ。ただ励まされてる感じ。
がんばってるのに「がんばれ」と言われている感じ。
理想の姿を並びたてられている感じ。
私の「なぜ」の答えにはなっていません。
そんな時に本屋の書棚で偶然目に留まった本がありました。
加藤諦三 著 「誰にでもいい顔をしてしまう人 嫌われたくない症候群」
その題名を見た時に何か批判的な題名だなと感じました。
と同時に何か私が言われている気分になったのです。
別に誰にでもいい顔をしているつもりはありませんが、なぜかそう感じたのです。
何か心の奥底でグサッと刺さるものがあったのかもしれません。
思わず手に取って目次を見てまたドキッとしました。
目次の見出しだけでわしづかみにされました。
私の響いた見出し(目次)を抜粋します。
*本記事、第10章では下記本より引用を多用します。
できるだけ正確に伝わるよう一部長文の引用になりますがご容赦下さい。
引用元
書名: だれにでも「いい顔」をしてしまう人 ~嫌われたくない症候群~
著者: 加藤諦三
発行所:㈱PHP研究所
人とも自分とも心がふれあわない
「ありのままの自分」を出すと嫌われそうで怖い人
人とのつきあいは「接待」と同じ感覚
自分を安売りして他人に尽くす
ストレートに物事を頼めない
感情に蓋をして問題解決を遅らせる
「うまくしよう」といい顔をする
自分を失って生きづらくなる
自分の気持ちがわからなくなる
隠された「ほんとうの自分」
自己犠牲にともなう憎しみ
「たいへんなことになる」と思うから疲れてしまう
親とのふれあいがなかった
なぜ人間関係の距離感がわからないのか
欠点にこだわる完全主義
逃げまいとする緊張
受け身でいることの不幸
同情を求める被害者感情
好き嫌いがハッキリしていれば悩まない
「嫌われてもよい」と思えば幸せになれる
人の期待に応えることが生きることになってしまった悲劇
他人を喜ばせようとしてはいけない
ひとりぼっちになる覚悟
生きることに行き詰まる理由
頑張りすぎて燃え尽きる
「もともと、あなたは強いのだ」
戦うことで自分が生まれてくる
感情的恐喝は善良な仮面をかぶっている
決断する覚悟の大切さ
捨てる 対決する 人間関係を整理する
思い込みを解き放て
「私は誰に対しても弱みはない」
つらつらと目次の大部分を抜き出しましたが、それだけ一言ひとことが響いたということです。
自分が今まで抱えてきた思い。
日々の不安、他人に神経をすり減らす日々、品定めされているような緊張感…。
そしてパワハラを受けてうつ状態の時の心情、家庭も仕事も何もかも行き詰まったと思い詰めた日々…。
その感情の一つひとつが拾われているような内容に見えました。
この本で何かつかめるかもしれない。
・探していた内容
思わず買っていました。
なぜ何もかも行き詰まったのか。悶々としてきました。
歩きまわって自問自答してきました。
こういう考えだからか、ああいうことをしたからか…。
考えても考えても答えは簡単には見つからない。
それがこの本では「はしがき」でいきなり核心に触れられていました。
その一節。
人生が確実に行き詰まる生き方が一つある。それは、みんなに嫌われないようにすることである。みんなに嫌われないようにするには、つねにみんなの気持ちを害さないように気をつけなければならない。
これを言ったら相手は気分を害すると思えば、そのことは言わない。
これを知りたいが、これを聞いたら、この人は怒るのではないかと思えばこれは質問しない。
しかし言いたいことはそのまま心の中に残るし、聞きたいことはそのまま心の中に残る。
日々不満は積もるばかりである。
不満が積もれば当然、敵意も出てくる。
その敵意も吐き出せない。ケンカができないのだから。
「敵意が抑圧されると、しばしば敵対的衝動の他人への投射がそれに伴う」
つまり周囲の人が自分に敵意を持っていると錯覚しはじめる。それはさまざまな誤解を生む。
相手が好意を持ってしてくれることのなかにさえ、いちいち敵意を感じるかもしれない。その人とは話したくなくなるのは当たり前である。
人を誤解すればコミュニケーションはできない。長い時間をかけて話していれば、お互いにわかるというものではない。
コミュニケーションができないで、誤解をする人はますます孤立することは避けられない。
しかし本人にしてみれば「自分は、相手のためにこれだけ我慢した」という気持ちになる。言いたいことも言わず、聞きたいことも聞かずに、相手の気持ちをおもんぱかって我慢に我慢を重ねて過ごしてきたと当人は思う。
それなのにすべてがうまくいかない。物事は予想したとおりにはいかない。相手は期待したように動いてくれない。
褒めてくれると思ったら、貶された。認めてくれると思ったら、冷たくあしらわれた。
遠慮をしたらやさしくしてくれると思って遠慮したら、無視された。遠慮したら謙遜な人と言ってくれることを期待したら、軽くあしらわれた。
嫌われるのが怖いからストレートにものを言えない。そこで仕事は思うようにはかどらない。家庭も仕事もうまくいかなくなる。
頑張っているのに何もかもがうまくいかなければ、気持ちは腐ってくる。
そうなれば近い人々にはますます敵意を持つしかなくなる。敵意を持っても、まだ言いたいことが言えない。聞きたいことが聞けない。それは嫌われるのが怖いから。
そして心身ともに消耗してくる。欲求不満で無気力になる。嫌われるのが怖いと、トラブルは起きやすい。そして相手を恐れていると、いったんトラブルが起きれば、トラブルはいよいよ深刻になっていく。
みんなに嫌われないためにいい顔をするから、物事は解決しないで複雑になっていく。
行き詰まってきた理由がズバッと書かれていました。
「嫌われないように」自分はがんばってきたんだろうか。
「誰にでもいい顔」をしてきたんだろうか。
それが理由なんだろうか。心に突き刺さりました。考えさせられました。
嫌われたくないという思いが様々な副作用を引き起こしてきたのか。
確かに人に気を使い過ぎるのは自分でも分かっています。
「気を使う」と言っても心遣いというようないい意味ではありません。
ただ神経をすり減らしているだけの「気を使う」です。
本書には様々な表現で人物像が登場します。
嫌われるのが怖い症候群の人、自己蔑視の人、自立できてない人、恐怖感のある人、対人恐怖症の人、自分は認められてないと思ってる人、完全主義の人、受容的構えの人、神経症者、愛情飢餓感のある人…等々。
これらの人物像も私は当てはまるのか。また謎は深まって行きました。
嫌われるのが怖いとどんなことが起こるのか、どんな特徴があるのか。
具体的な事例を短いセンテンスでこれでもかというくらい、くり返しくり返し訴えられていて胸にグッと迫ってきます。
こうしてみよう、ああしてみようのような「HOW TO」ものではなく、具体的な事例で「分析」されている。
私の持つ「なぜ」の答えが詰まっている気がしました。
・なぜ生きづらいのか
この本を読んで、私の生きづらさ、不安とはいったいどんなものなのか改めて頭の整理をしました。
まずは社会人になってからどんな生きづらさを感じてきたのか思い出してみました。
常にばくぜんとした不安・憂鬱を抱えている
人と対峙することにエネルギーを消耗してしまう
人見知り。人と対峙するとエネルギーを消耗して疲れてしまう。
理想の自分を見せなければと気負って消耗している。
人に言い切られたり、強く押されると言い返せなくなる。避けてしまう。
職場では品定めされる気分。常にオーディションを受けているような緊張を抱えている。
心理的争いを避けるが故、人と揉めると距離を置いてしまう。
上司となると構えてしまってぎこちなくなる。
上司から常にパワハラに遭ったり、責められるのではというトラウマがある。
上司を避けてしまう。よそよそしくなり余計に溝ができる。
批判を恐れる習慣がついている
悪く思われはしないかと批判を恐れている。
批判に傷つきやすい。気にし過ぎる。
いい人を演じる。かしこまる。硬くなる。
ありのままでは疎外されるのではという恐れを感じている。
自分を隠してしまい、人と距離を作ってしまう
電話は他人に聞かれたくない。バッグやスマホを他人に見られたくない。
家に他人をあまり招きたくない。本音を他人に知られたくない。
仕事で毎日長時間の拘束に疲弊している
毎日長時間、誰かに監視されているような緊張感が続く。
「たいへんなことになる」ように感じて朝から緊張している。
~すべきに囚われやすい
自己啓発本や理想の人のやっていることに影響を受けて形だけに囚われる。
形ばかりで心がない。
頑固に自分のやり方を続けてしまう。
受け身の姿勢で疲れやすい
どうやったら1日何事もなく過ごせるかに気が行く。
大勢の雰囲気に気後れする。
よく最悪の状態を想像し、ショックを和らげるように慣れておこうとして重くなる。
自分が上手くできなかったことを妄想でやった気になって落ち着かせる。
ネガティブな感覚を引きずっている
愚痴ばかり浮かぶ。
職員を性悪説で見てしまう。
できなかった時どうしようと結果ばかりが気になる。
まとめると
なぜ生きづらいのか
他人の批判を恐れているから。
他人の目を気にしているから。
他人に合わせているから。
つまり、他人軸で生きているから。
他人に悪く思われないようにしなければならない。
他人が思うだろう期待に応えなければならない。
ありのままの自分では他人の期待に応えられないかもしれない。
全部他人軸。自分がない。自分の意思は存在していない。
加藤先生の言う通り、嫌われたくない症候群の他、登場する様々な人物像の多くが当てはまっているように感じました。
「嫌われたくない」言い換えると「批判を恐れる」「人にいい顔をする」。
それが私の「なぜ」の「理由」。
それじゃ嫌われたくない「原因」は何か。
本書ではその原因も突き詰めて言及されています。
答えを言うと、心の奥底に「さびしさ」「恐怖心」「憎しみ」があるからだと言うのです。
そうだったのか。確かにそうかもしれない、と感じました。
それならそのさびしさや恐怖心、憎しみはどこからくるのか。
性格なのか。何か原因があるのか。
長年抱えてきた生きづらいという悩み。それがなぜかというもどかしさ。
その答えが見つかりそうなのです。そのことも分かりやすい事例で分析されていました。
私はHSPだと題名にも謳っています。ただこの定義は最近知ったこと。
当時はHSPという言葉も知りません。ただただ幼い頃から繊細な子と言われてきました。
HSPの人のことを世間では「繊細さん」などと言い換えて表現されることもあります。
私は生まれ持って「繊細さん」今で言うHSPだったのでしょう。
本書を読み進めるうちにその繊細さが原因なのかとも思えてきました。
しかし、それだけではないようなのです。
どうやら繊細が故に幼い頃の親とのふれあいが大きく関係しているようなのです。
そのことに言及している一節をいくつかご紹介します。
恐怖感のある人は、自分に弱点があることがどれほど恐ろしいことであるかを小さいころに感じている。しかし母なるものを持った母親に育てられたような人は、自分に弱点があることを恐れない。弱点があってもそれで母親から責められていないからである。
弱点があることで自分の身が危険にさらされた体験がない。
そこで自分の弱点を受け入れる。
親がどのような演技をしても、子どもは親の無意識に反応する。
子どもは自分が嫌われているということを間違いなく感じ取る。そうしたら親が怖い。生きているのが怖い。
そして「なぜ嫌われたか」という原因を「私はダメな人間だから」と解釈するだろう。
そして嫌われないためには、いつも「いい人」でいなければならないと信じる。そして「完全な自分」を演じなければならないと思い出す。
その子どもが大人になっても、「ほんとうの自分」は嫌われる存在だという意識はぬぐえないだろう。
大人になって周囲の人の種類は変わった。人間環境が変わった。
それでもその人の意識は変わらない。したがって嫌われていなくても「私は嫌われている」と思う。
そうしたら大人になっても「ほんとうの自分」を人に隠しはじめる。仮面をかぶって嫌われないように無理をする。
しかし「ほんとうの自分」を隠せば隠すほど、「ほんとうの自分」は嫌われる存在だという気持ちは強化されていく。
更にこんな一節も。
父親と母親は自分たちがトンボなのに、子どもには親をカエルと思わせている。
そして「イヤだね、この子はトンボになってしまって」と子どもを貶す。
子どもは劣等感に苦しみ、自分はカエルになろうと無理をする。ノイローゼになる。
三人とも自分を嫌いになり、相手も嫌いになる。
三人が自分たちはみんなトンボだとわかれば、心がふれあって生きられる。
こうして育った子どもの孤独感は深刻である。心の中のさびしさは計り知れない。
しかしこの子どもは自分のさびしさに気がついていない。
フロムの言うこの無意識のさびしさこそ、この子の一生を支配してしまう。
非生産的生き方になり受容的構えの人になってしまうのも、つまりいつも不満なのも、人に対する恐怖感に苦しめられつづけるのも、嫌われるのが怖くて八方美人になり、人に利用されつづけるのも、原点はこのさびしさである。生涯苦しみつづけ、悩みつづけることの原点はこの無意識の領域にある、計り知れないさびしさである。
母親との関係でもっとも大切なことは、自分は自分だから母親に愛されているのだという感覚である。優れているのではない、自分だから愛されているのだという感覚である。
人から愛されるためには優れている必要はないのだと感じる。その感覚があるから対人恐怖症にはならない。
母親との心のふれあいは、巨万の富に勝るものを子どもに与える。
子どもは親から拒否されたときに、親に愛する能力がないからではなく、自分がダメな人間だから拒否されたと解釈する。親に拒否された子どもは傷つく。
そうなれば大人になったときには、自分に自信がない。どうしても人が怖いだろう。
さらに自分をとりまくすべてが恐怖である。
子どもが言うことを聞かないので、母親はどうしてよいかわからない。そこで、子どもを脅す。
家出するとか、子どもをよそにやるといって脅かす。「ママは出ていく」という母親は子どもを脅している。
そうして脅された子どもはいつも不安感がある。
~中略~
要するに子どもは親から脅されることで、自分は嫌われるのではないかという恐怖感を増大させる。
親から心理的に責められたり、嫌われたり、否定されたり、拒否されたり、脅されたり…。トンボなのにカエルになることを要求される辛さ。親が自分の理想を子どもに押し付けるエゴ。子どもを思い通りに動かそうと脅す親。よくあることじゃないでしょうか。
そのままの自分では母親に嫌われてしまうのではないか。繊細な子どもなら尚更敏感に感じ取ったり、それが刷り込まれてトラウマになっていってもおかしくありません。親からの無償の愛を感じ取れなかった、承認されなかった辛さはいくばかりか。「さびしさ」「恐怖心」「憎しみ」を生み出す根本的な原因として私はストンと腑に落ちました。私自身が思い当たるところがたくさんあったからです。
それは次章で幼少期を振返っていきます。
・生きづらさを解消するには
理由や原因が分かったところで、今度はどうすれば解消していけるのか。
そのことも最後の方に書かれていました。
ただしそれは慰めや励まし、そしてノウハウ等を書いたものではなく、簡単に言うと「覚悟しろ、向き合え、戦え」とストレートです。
でもそれが返って納得感があったのです。
その「どうすれば」に関しての一節をまたいくつかご紹介します。
対決を恐れないで生きていれば、ある日ふと「強くなったなあ」と感じることがある。
人はいきなり強くなるということはない。
しかしつらくても戦っていれば、しだいに嫌われるのが怖くなくなる日がくる。
「あれほど嫌われるのが怖かったのに」と驚く日が必ず来る。
それを信じて戦うことである。
あなたをほんとうに動かしていたものは、無意識にある恐怖感と憎しみだった。
それに気がつくことであなたは生まれ変わる。
自分が対人恐怖症だと思う人は、まず「嫌われても、困ることなど何もない」と自分に何度も言い聞かせることである。そして嫌われたら困ると思うことを紙に書いてみる。すると書くことが何もないことに気がつくだろう。
対人恐怖症から回復したければ、その心の底にあるさびしさと憎しみを意識に載せて、それと正面から向き合うことである。とにかく楽しさを見つけることと、こうして心の底にあるものに直面していくことで対人恐怖症を乗り越えていくことができるに違いない。
自分をしっかり持つためには、楽しいことを見つけること、次には尊敬する人と軽蔑する人をハッキリ分けること。決して同じ態度で人と接してはいけない。
いま自分自身の基準がないといって落胆することはない。今日から「私はだれなのか?」を自分に聞きながら自分自身の基準をつくっていけばいい。
そしてその基準ができるにしたがって、他人の期待に応えなければというプレッシャーはなくなってくる。
そうなったときが「私はプレッシャーが好きだ」と言えるようになる。
ひとりぼっちになる覚悟が幸せになる秘訣である。
その人に嫌われないことが、あなたの人生の目的なのだろうか?
心の砦をつくる方法は二つある。一つは自己表現である。もう一つは戦うこと。
自己実現は自分の基準をつくること。自分を出すこと。
戦うことは自己主張すること。自分と向き合うこと。
その戦うことについてのこんな一節も。
人は戦うことで強くなる。戦うことで鍛えられる。戦うことで自分が生まれてくる。
戦うことで「自分がある人」になれる。
もちろん戦えば突然ある日強くなるというものではない。それは月日をかけて強くなる。
徐々に徐々に強くなる。
何よりも大切なのは決断である。「捨てる」ということである。
毅然として自分を出す。すると相手の対応が違う。すると相手が見える。
修羅場は現実と向き合うこと。活路を見つけるために、現実と向き合う。
現実に向き合うためには覚悟が必要。修羅場とは、自分の自覚。
修羅場は現実と向き合って、自分がどう生きるかを見つけること。
それは活路を見い出すこと。
「修羅場をつくる」ということはそういうこと。修羅場は活路。
自分は戦ってきた。というより耐え忍んできた。襲ってくる不安にただただ耐え忍んできた。なぜ不安になるのか憂鬱になるのか、なぜ常に気が張っているのか理由も分からずに耐え忍んできた。でもここで理由が分かってきた。原因が分かってきた。それは私にとって大きな進歩でした。
繊細で人見知りをしてしまう子。今で言うHSP。私はその性分で親、特に母親と、そしていろんな境遇に対処してきました。そのくり返しの中で生きづらさをより感じるようになっていったようです。
次章: 生きづらいと感じてきたHSPの私 ~視点を変えればすべてが新境地~ 第11章
■シリーズ目次
生きづらいと感じてきたHSPの私 ~視点を変えればすべてが新境地~(はじめに)
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