生きづらいと感じてきたHSPの私 ~視点を変えればすべてが新境地~ 第9章
前章: 生きづらいと感じてきたHSPの私 ~視点を変えればすべてが新境地~ 第8章-5
9.自分と向き合う
・再び拠点長に昇格
・家との距離は近く、妻との距離は遠く
・父の他界
・自分と向き合い始めた
・仕事の成功体験
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9.自分と向き合う
・再び拠点長に昇格
精神的にはまだまだ安定しません。
極度の不安に襲われたり、常に憂鬱で辛い日々が続いていました。
拠点長という職務で散々苦しんできたのに、それでもまだしがみついてしまう。
なぜか。
自分には拠点長か副拠点長の道しかないと思い込んでいたからです。
そして社会的な立場のこともあるし、教育費や生活費もまだまだかさむからです。
そういう意味では念願の拠点長復帰でした。
私は相手が上司だと身構えてしまう。機嫌を窺ってしまう。半ば言われるまま従う。
評価されることを恐れているのです。
批判されはしないかと恐れているのです。気分よくいて欲しいと気を使うのです。
副拠点長時代は直の上司が常にそばにいる。
常に身構えている状態です。
それはそれはかなりすり減りました。
そんな副拠点長からはやっと脱出。
でも拠点長だと自分の思うようにできる反面、以前のようにまた数字に追われ、拠点の全責任を負うことになります。
つまり矢面に立つのです。
それはそれで大変。複雑な心境でした。
新しい赴任地は人口3万人ほどののどかな海沿いの町。
田舎ですが大きなスーパーなどもあって明るい印象。
一安心です。
前任地より更に実家に近くなったこともあって安心できたのもあります。
新しい担当拠点は同じ支社管内の在籍20名ほどの小さな拠点です。
ベテラン勢のリーダーが2人。新人勢の育成担当リーダーが2人。
このくらいの規模の拠点なら楽勝で経営する拠点長もいます。
でもHSPの私は繊細に何でも細々感じ取ってしまう。
話を聞いてしまう。
ましてや心が病んでいる。
だから小さいといっても不安でした。
小さな拠点は抱えている年間売上目標が小さい。
職員も少ない。
それはやりやすいはず。
でも小さな拠点は小さいなりにしんどいこともあります。
例えば、問題職員が1人でもいると簡単にかき回されてしまいます。
また、できる職員が不調になると簡単に拠点業績も凹みます。
大きな拠点は職員同士でお互いに牽制作用が働きます。
問題職員の行動もある程度かき消されます。
できる職員も複数いて、好不調の波も割と一定に保たれます。
小さな拠点はそういう訳にはいきません。
恐れられるような拠点長ややり手の拠点長ならいざ知らず。
「舐められてはいけない」と思ってスタートした拠点長職でしたが、演技や形では通用しないことを思い知らされてきました。
私みたいに繊細に感じ取ったり、話を聞いてしまうタイプは職員間のイザコザに巻き込まれたりします。
そして拠点全体の揉め事のようになるのです。
着任して気付きました。リーダーたちがすでに私にとっては問題職員だと。
ベテラン勢の筆頭リーダーは50代のバランスのとれた落ち着いた人。唯一まとも。
しかしもう1人は、私より少し年上で、初めから険があってニコリともせずほぼタメ口でした。
そしていきなり「辞めさせて下さい」と言ってきたのです。その後本当に取りつく島もなく辞めて行きました。
新人勢の育成担当リーダーの1人も私より少し年上でこれまた斜に構えてツンケンしているタイプ。
力はないのに私への嫌みはピカイチ。イラッとさせられます。
そしてもう1人がもっと面倒なタイプ。
うわさ大好き。支社幹部大好き。常に表舞台にいたい。仕切る立場にいたい。
気分によってニコニコペラペラから突然プンプンピリピリ。
要は自己中な人。出しゃばりな人。嫉妬心の塊。
ただし立ち回りは巧み。営業もできる。口八丁手八丁。怪しさ満載。
こんなリーダーたちに更に怪しげなマイペースの60代後半のおばさんなど小さな拠点ながらなかなか重荷に感じました。
拠点長復帰とはいえ、心は病んだまま。
まだまだ意欲はあまり湧かず。
ただ初めて単身赴任した時の強烈な孤独感やアルコール依存は少し落ち着いていました。
1年目は鳴かず飛ばずのまま推移しました。
やり手の支社部長に「こんな拠点で成功できないようじゃダメだな」と言われ、グサッときた記憶があります。
・家との距離は近く、妻との距離は遠く
家族も前年度に妻の実家近くに引越してます。
近くなったのはいいものの、強引に妻の実家近くに転居されたわだかまりは消えていません。
そこに妻は無視だけでなく、私が帰ると露骨に険しい表情になるようになりました。
私は何も言えず。ただただ辛い。
意味も分からず無視され続けると、意外と何も言い出せなくなるものです。
そのうちに家の敷居をまたぐのが怖くさえなってきます。
自分の家に帰るのに勇気がいる。気が重くなる。
せっかくの週末まで辛い思い。
ただ子供たちには会いたい。だから帰る。
でも、ついには帰宅も週1が隔週1に、そのうち月1になっていきました。
帰宅した時には早朝から長男のシニアリーグの手伝いと、その後夕方前には次男の少年野球の見学。
子供の成長は嬉しい。がんばってる姿を見るのは嬉しい。
でも自由はない。好きなことをできる時間はない。
妻の無視と「野球の手伝いが甘い」とでも言うような無言の圧力を感じながら1日は過ぎていきます。
移動も一人。帰宅すれば孤独感との葛藤。
いつも赴任先に戻る時間には寂しさと虚しさが襲ってきたものです。
距離は近くなったものの、心の距離は益々遠くなった思いでした。
・父の他界
何となく仕事は悩みながらもこなすだけだったような1年目も終わる3月。
平日の夜10時頃、いつもなら社宅マンションに帰宅して風呂に入ってビールを飲み始めている時間でした。
その日は虫の知らせなのか何なのか、たまたまビールを飲まずにいました。
その時、突然電話が鳴りました。
ビクッとしました。「こんな時間に誰?」。
姉からでした。「お父さんが倒れた。救急車で運ばれた。アカンかも」。
血の気が引いて力が抜けていったのを覚えています。
とうとう恐れていた時がきてしまったのか。
とにかく実家に帰らねば。
急いで車で走り始めました。約1時間50分の道のり。
何とか持ちこたえてくれ。祈るような気持ちでした。
何と表現していいのか。心の中はハラハラ?ビクビク?
半分くらい走ったところでまた姉から電話がかかってきました。
姉の声は震え、泣いていました。「アカンかった」。
私は言葉を失くしました。ものすごい脱力感。
実家に着くと母1人のはずが警察3人が来ていました。
「何事?」。聞くと自宅で亡くなった場合は他殺ではない証拠をとらなければならないらしく、父の遺品の写真を撮ったりしていました。
今の時代は病院で亡くなるのが普通という発想なのでしょう。
年老いた母はガタガタ震えていました。
声も震わせながら「何にもしてへんのに」と疑われているような対応に泣いていました。
それでなくても父が亡くなって動揺している時に、警察に捜査までされて母のストレスも心配でした。
父の遺体は警察署にあるらしく、朝方まで会えないとのこと。
ほんと家で亡くなるとややこしい。
普通に家で倒れて亡くなったのに。
悲しむ間もなく夜通し、私は実家で通夜と葬儀の準備のために葬儀社との打ち合わせ。
そして朝方、警察署に安置されている父の亡骸に会いにいきました。
チラッと見ただけ。
そのまま病院に運ばれて解剖されることになりました。
また丸一日会えません。我が親が亡くなってすぐ会えない。
何とも不条理に感じました。
ようやく実家に父の遺体が戻るも、まだ悲しむ間もなく通夜と葬儀の準備の続きです。
ほとんど寝る間もなく、気は張っていました。
ようやくその夜、翌日に通夜を待つばかりになりました。
やっと父の亡骸に寄り添えた。
その時、初めて涙があふれました。
当時は家族葬のような発想はなく、普通に通夜も葬儀も大々的に参列してもらう形です。
通夜に妻も来ました。
嫌々だったのか戸惑っていたのか険しい表情で「何したらいいの?」と久々に私に口を開きました。
私は何も頼む気にもなれず。
「特に」としか言えませんでした。
通夜・葬儀には私の会社の上司や拠点の職員たちも駆けつけてくれました。
妻は挨拶もせず、ツンケンした表情で知らん顔。
いくら「特に」と言ったにせよ挨拶くらい…。
愕然としました。
妻は元々社交的で明るく、人付き合いが上手く気の利くタイプです。
なのにこれか。ここまで仕打ちをするのか。
せめて演技でもいいから会釈のひとつもして欲しかった。
私は会社の人たちに余計に神経をすり減らしました。
何とか無事に葬儀まで終わり、火葬場で荼毘に付されました。
その日に初七日も済ませました。
終わるとすぐに妻はサッサと帰ってしまいました。
ホッとしたのと愕然としたのと…。複雑でした。
恐れていた親の死が現実のことに。
死に目には会えませんでしたがなぜか父はすぐそばにいるような気がしていました。
葬儀が終わっても私はずっと気が張っていました。
まだまだ四十九日や百か日などが次々と待ち受けています。
悲しむ余裕もなく、妻のことで余計に神経もすり減っていました。
おそらくこの時に心の中で妻のことが吹っ切れたのだと思います。
・自分と向き合い始めた
父の死は私にとって一つの大きな契機となりました。
妻と溝ができて7年。当初はあんなに妻の気持ちを取り戻したくて打ちひしがれてきたのに不思議なくらい吹っ切れました。
逆に当時は葬儀の対応などを思い出しては恨みつらみばかりが浮かぶ。
ずっと不安や憂鬱を引きずり、うつ状態にもなってきました。
幼少期から生きづらさを感じ、社会人になってより一層顕著に。
常に品評会にかけられる商品のような気分。
他人と競争、数字に追われ、人と対峙し、パワハラにも遭い、気の休まる時がない。
心はどんどん病んでいく。
更に家庭まで崩壊し、何もかもが行き詰まっていきました。
なぜ自分の人生はこんなことになってきたのか。
ずっとそうは思いながらも日々流されてきました。
「このままではいけない」。
自分と向き合おう。そう強く思い始めたのです。
実家にも週末に帰るようにしていました。
父が亡くなり母一人。心配です。
そして私にとっては週末だけが唯一の息継ぎの時間。
やはり故郷はいい。何か包まれるような安心感。
実家に週末帰れるような距離になって3年。
年に4~5日しか帰れなかった頃に比べると本当に嬉しかった。
鴨川のせせらぎの音や若い頃よくうろついた繁華街。
何とも懐かしい。
私は土曜日の夜、1人で繁華街に飲みに出かけました。
そして、自問自答しながら歩いて歩いて歩きまくるようになりました。
じっと家で考え事をするとネガティブな方に行きがちだからです。
歩いて景色が変わると何か前向きになれます。
なぜ生きづらいのか、なぜ行き詰まるのか、なぜ自分を隠すのか、なぜ形から入るのか、そして自分とは何か、生きるとは何か等々、哲学的なことまで掘り下げて考えました。
人生について考えるのは浪人中以来のことです。
そして元々関心があった心理本も読み漁りました。
書店にこもって立ち読みし、買って読み、そんな日々が続きました。
何か答えが見つかった訳ではありません。
でも心が落ち着くような感覚でした。
・仕事の成功体験
父が3月に他界してすぐにその拠点1年目の年度は終わりました。
やはり鳴かず飛ばず。年間売上目標も達成できず。
自己嫌悪に陥っていました。
自分に能力がないのか。向いてないのか。
心のどこかで「自分はできるはずだ」みたいな何の根拠もない自信のようなものもありました。
でも現実には山あり谷あり。鳴かず飛ばずの会社人生。
根拠のない自信はただのプライド。
何の役にもたたず。
支社部長に「こんな拠点で成功できないようじゃダメだな」と言われたことが頭をよぎります。
人とのコミュニケーション。
拠点マネジメントの一番大事なことを後回しにしていたように思います。
職員と話しはする。でもどこか自分を隠す。構える。作っている。
そして何かをするにも形から入る。
立派でないといけない気がしている。自然体が分からない。
だから一人よがりになる。
「このままではいけない」。
仕事にも向き合う気持ちになっていきました。
逃げるほど追ってくるもの。
リーダーたちはいろいろな不満がかなり溜っている様子でした。
そう感じつつも何となく誤魔化してきました。
向き合うのが怖い。でも避けて通れない。
唯一話の分かる筆頭リーダーに相談しました。
すると、みんなの溜った鬱憤を吐き出す場を設けたらどうかと提案されました。
ものすごく勇気がいることですが私は腹をくくりました。
リーダーたちと酒の席を設けたのです。
居酒屋に集まりました。正直、心はザワついていました。
普通、ワリカンではないので料理や飲み物の注文は遠慮しながら拠点長に従うものですが、そのリーダーたちは何も言う前に勝手にメニューを見てどんどん注文していきました。
その傍若無人ぶりに内心唖然としました。
みんなリーダー同士でペラペラ話しながら食べるわ飲むわ。
なかなか本題にならず。
ある程度食べて飲んだ頃、私はようやく本題を切り出しました。
「1年目は残念な結果になって申し訳ない。
2年目は成功したい。今思うことを聞かせて欲しい」。
そんなことを言ったと思います。
一瞬静まり返ったかと思うと、次の瞬間、一斉に文句や批判が爆発して取り付く島もないほど。ボロカス。
人格まで否定されました。
ちゃんとやってきたはずなのに。
人格者と思っていた筆頭リーダーまでもが言ってきます。
針のむしろです。腹立たしさと情けなさでいっぱいでした。
でもこうなれば全部吐き出してもらおう。
みんなが言いたいだけ言って終わりました。
「これから力を貸して下さい」。
最後にそう言って終わりました。
最後はみんな神妙な面持ちでした。
しかしこれでよくなるようにはとても思えませんでした。
たまらない辛い時間。
ムダなことで疲れただけではなかったか。
帰っても落ち込んで落ち込んで翌日から出社拒否になりそうな気分でした。
ただ翌日、心なしかリーダーたちの表情が違うのです。
動きも何となくキビキビしている。
そうなんです。
自分たちが好きなことを言った分、自らやらないといけなくなっているんだと気付きました。スッキリしたのでしょうか。
何か私もその気になっていきました。
私はその勢いで、新人の増員にも手を打ちました。
前任地で散々パワハラをしてきた拠点長がやっていた方法です。
職員の増員を仕組化して成功していた方法です。
皮肉なものです。
あんなに嫌でたまらなかった拠点長の真似です。
リーダーたちも強力してくれました。
すると増員もでき始めたのです。
恐ろしさを醸し出さなくても職員たちがその気にさえなれば出きるんだと知りました。
更にある時、一番やっかいな出しゃばりの育成担当リーダーが、支社部長と勝手に直接やりとりをして拠点のことをいろいろ決めたりと目に余る行動が出始めました。
周りのリーダーや職員もそのリーダーのことが嫌でたまらない様子。
私も異常なほどに腹が煮えくり返っていました。
ただ単に怒鳴ればパワハラになりかねません。タイミングを見計らっていました。
先に私は支社部長に猛抗議しました。拠点長を飛ばして育成担当リーダーの言うままに物事を決めていたからです。
そして当のリーダーには朝礼後みんなのいるところで呼び、やんわり話し始めました。
「支社と直接やりとりしてるよね。いろんなことが俺の知らないところで変えられている」。
するとそのリーダーはすごい勢いで言い訳を始めました。
その瞬間私は「あなたとは一緒に仕事をする自信がないっ。これからはすべて支社部長と直接やりとりしてくれっ」と大声で唸りました。
あえて拠点の職員みんなに見られるところでやったのです。
さすがのそのリーダーも震え上がってそれ以上何も言えず。
その後何かとゴマを擦ってきました。
筆頭リーダーは「あれは最高でした。スッとしました」と絶賛。
拠点の雰囲気がより一層よくなったのです。
私も企業回りなど精力的に走り回るようになりました。
そうして2年目は勢いがつき、とうとう年間売上目標額を達成しました。
しかも会社から年間表彰も受けました。
私にとっては成功体験です。
ありのままの自分を隠し、拠点長らしくしないといけないと構えて来ました。
形から入るから心がない。職員に心を開いていない。
だから共感も得られない。
自分もしんどい。拠点も何か上手くいかない。
そんなことを繰り返してきました。
そして心も病んでいきました。
職員と心の距離を感じながらもそれが怖くて余計に距離を置いてしまう。
もう距離を縮めるのはムリだとさえ感じていました。
でもリーダーたちと逃げずに向き合ったことで変わりました。
本当に飲み会の席は辛かった。
でも「どんな状態からでも変わるんだ」という体験ができました。
まだ日々の不安や憂鬱も抱えています。
家庭の崩壊状態も続いています。
行き詰まったという思いも続いています。
ただ変わっていけるんじゃないかという兆しも感じていました。
次章: 生きづらいと感じてきたHSPの私 ~視点を変えればすべてが新境地~ 第10章-
■シリーズ目次
生きづらいと感じてきたHSPの私 ~視点を変えればすべてが新境地~(はじめに)
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