生きづらいと感じてきたHSPの私 ~視点を変えればすべてが新境地~ 第8章-5
前章: 生きづらいと感じてきたHSPの私 ~視点を変えればすべてが新境地~ 第8章-4
8.とどめのパワハラ
8-5
・勝負の時
・年度末までの我慢
・そして年度末
・家族は大阪に
・2年目・救いの人の下で
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8.とどめのパワハラ
8-5
・勝負の時
法務室や支社に相談したものの、具体的なアクションを起こされることに躊躇しています。
すべてのことが行き詰まっていくような重い感情を引きずったままで着任。
そこにこの強烈なパワハラ地獄でとどめを刺されました。
でも、もう毎日の恐怖の連続に耐えられない。
呆然自失。うつ状態。何と表現すればいいのでしょうか。
自分は自分で守るしかない。
長男の書いてくれた「格言」が勇気をくれました。
その拠点長本人に直接話そう。
それしか道はない。
もしパワハラがより激しくなったら、その時は出るところに出る。
もうひとまず下地は作ってある。
毅然と行くしかない。
どんなタイミングで話すべきか。
朝はまずい。夕方までの時間が長い。
夕方のそろそろ帰る頃に言おう。
そう考えながらも心臓がバクバクして恐怖感が襲ってきます。
でもなぜか闘う気になっていました。相手と、というより自分自身と、と言う方が近いでしょうか。
秋のある日の夕方、意を決してその拠点長に声を掛けました。
「あのー、少しお話があるんですがお時間もらえますか」と切り出しました。
「なんだっ?」と怒ったような表情で言われました。一瞬ひるみました。
「応接室でお願いできませんか」と私。
毅然ととは言っても、やはり恐る恐るです。腰が引けていました。
その拠点長もいつもとは違うなと感じたはずです。
私からそんなことを言うことはまずなかったからです。
「なんだ?」と言いつつ、渋々応接に来ました。
私は当然、ICレコーダーですでに録音しています。
万一のためにICレコーダーを靴下に挟んでの録音です。
その拠点長はソファ奥深く座り、足を組み、タバコを吸い始めました。
「なんだ?早く言え」まくしたてられました。いら立っている様子。
私はすでに心臓バクバク状態が更にひどくなり、逃げ出したいような衝動に駆られました。
でももう後戻りはできない。心を落ち着かせようと必死です。
私は静かに話し始めました。
「あのー、いつもされるパワハラを止めていただきたいんです」。
その拠点長は「なにーっ、いつパワハラなんかしたんだ、ん?」と声を荒げて言いました。
私は「いや、いつもされてますよね?止めてもらえないようなら私も考えます」と答えました。
こんなやり取りが数回続きました。私は「分かりました。考えます」と言って立ち上がりました。
するとまた「なんだーっ?」と大声で唸ったあと、「まあ、座れ」と言われました。
急に静かになり、少し時間をおいて「ちょっと外にでようか」と言われました。
「いや、ここでいいです」と固辞しても「おまえはちょっと疲れてるんだな」と言いながら立ち上がりました。
外に連れ出そうとします。
何のため外に?いぶかしがる私になかば強制のように「行くぞ」と言い放ちます。
まずいなと思いながらも従ってしまう弱い自分がいました。
毅然と、と言ったつもりでも引きずられかけている。まずい。
駐車場へ行き、例のビンテージもののベンツの助手席に乗せられました。
どこへ行くつもりなのか。
走り出すと、海の方に向かっている。
もしかして拉致? 殺される? まさか。
恐怖と葛藤の時間。外に出ることをもっと固辞すればよかった。後悔先に立たず。
確か漁港の岸壁ギリギリのところだったと思います。車を停めました。
またその拠点長の得意の空間に引きずり込まれる。恐れました。
しばらくお互いに沈黙。怖い時間。
その拠点長がゆったり話し始めました。
「おまえはちょっと疲れてるんじゃないか、ん?」
私は小声で「いえ」と否定。
「いや、疲れてるんだ。そこでどうだ、少し休みを取ったら?」と言い出しました。
「何なら病欠として数カ月休んでもいいんだぞ」。
どうしても休む方に持って行こうとするのです。
私が意を決して言いに来たことが伝わったのでしょう。
このままコイツをいさせては、もしかしたら支社にペラペラしゃべると思って、内心はビビったのだと思います。
自分の悪事が役免や解雇にも相当することをなかば理解していたのかもしれません。
そんなことになったら、本人にとって大事な大事なとっても大事な退職金や、会社からの年金等が吹っ飛ぶ恐れもある。
それだけは避けないといけない。
「詐欺師」「金の亡者」にとっては一大事です。
コイツが使い物にならないなら、せめて邪魔されないようにしないといけない。そういう判断だったのでしょうか。
私はビクつきながらも「パワハラを止めていただければ…」と声を絞り出すようにもう一度言いました。
「えーっ?」その拠点長は怒ったように大声を上げました。
そして次の瞬間、また冷静になります。必死で凶暴な本性を隠しているようでした。
「パワハラなんてしてないだろ、ん?」また脅しモードです。
「いえ、止めていただけないようなら考えがあります」と思い切って言いました。
「何だーっ?」また声を荒げました。
私は委縮しながらもそのまま通しました。
その拠点長が怒鳴りたいのを我慢しているのが伝わってきます。
内心は困っていると感じました。
その日はそれ以上は言われず拠点に帰り、何とかウヤムヤな感じで終わりました。
ちゃんと言ったことを理解したのか。不安はありました。
ただ、私は言うことは言った。
恐怖感と共に何とも言えない「言ったぞーっ」という、詰まっていた空気が吹き抜けていくような爽やかさも感じていました。
今までずっと我慢していたことを行動に移したという自己満足と高揚感。
・年度末までの我慢
翌日。今日は態度が変わっているのか。それとも相変わらずか。
不安な中、出社しました。
その拠点長が出社してくるのが怖いのと、どこか心の片隅ではどう変わっているのか知りたい好奇心もありました。
出社してきて間もなく呼ばれました。怖い。思い直してパワハラ継続か。
ICレコーダーはしっかり忍ばせて行きました。
「よく考えたんだけど、やっぱり休んだ方がいいと思うよ」と切り出してきました。
私は昨日よりは強くなっていました。1回言うことは言ったという自信です。
「いえ、休みません」ボソッと返事しました。
そんな押し問答が何度か続きましたが、不思議と声を荒げることがなくなっていました。
諦めたようです。
私は、相談していた支社部長に事の顛末を話しました。
「よく言ったね」と感心されました。
そして引き続きフォローしてもらうことになりました。
そこから自席に呼ばれての尋問はなくなりました。
呼ばれても事務的な話。呼ばれるたびにICレコーダーはまだ手放せません。
かなり私に警戒している様子が手に取るように伝わってきました。
その拠点長は、私があんなことを言って来るってことは、バックに誰か付けているのではないかと勘ぐっていたのかもしれません。
やはり外部に自身の手の内や悪事がモレていくことを恐れているのか。
ただ私に対して我慢がならないのも伝わってきました。
朝礼でも私に対しての嫌味や批判を遠回しに職員に話します。
話の流れからは関係ないのに私の話を挟んできます。頻繁にです。
または、いろいろささやいてきます。
自席に呼んでではなく、通りすがりにささやくのです。
「こんなんじゃあ、来年の拠点長復帰は難しいだろうなあ」。
そんな遠回しな脅しや嫌味は繰り返されました。いわば、当てこすりです。
そして更に別の攻撃もしてきました。業務上で使用する自分の車にかかる経費を、会社に請求することに関しての脅しです。
私の弱点を突きたくて考え出したのでしょう。
まずはその「車にかかる経費の請求」とは何かを説明をしておきます。
拠点長職務では自身の車も仕事に使います。
その経費はガソリン代として、 業務上走行距離1キロあたり〇〇円の計算で支給されます。
月末に各自が日付や行き先を請求書に記入して、月間走行距離で換算して請求する形式です。
いつ、どこへ行って何キロ走ったかをきっちり記録している拠点長はほぼいないでしょう。聞いたことがありません。
だいたいこのくらい。疑われない程度。常識内。
中には業務でほとんど走っていなくても、上乗せして請求する人もけっこういたはずです。給与外のこずかい感覚です。もちろん厳密に言えばいけないことです。
会社も自身の車を使わせているので、社会通念上の範囲内なら何にも言いません。目をつぶっている。
でもあまりにも請求額が大きいとか、どんどん請求が増えているとか、不審な動きには目を光らせています。おかしい場合は調査や確認が入ります。
その結果、不正が明らかなら事情書か懲罰ものです。
当時は飲み屋なんかで空の領収証をもらって、客と行ったことにして経費として請求するなんてこともまかり通っていました。
現在では時代の流れもあって、経費についての考えも厳しくなり、監視もシビアです。
空の領収証なんて発覚したら、ヘタすれば解雇ものです。
私はけっこう職員の同行や企業訪問で走っていました。
ただ請求は私もご多分に漏れず、だいたいで請求していました。多めに請求することもありました。
冬用タイヤに履き替えも自腹。タイヤのすり減りも、車の酷使も関係なく、もらうのはガソリン代だけ。ずっと不満に思っていました。
その費用も含まれての経費らしいのですが。
その拠点長はその車の経費に目を付けてきました。
知らないうちに私の車の走行距離をチェックしているのです。
車のメーターはアナログ。総走行距離が出ている。
ちょいちょい私にささやいてきます。
「気を付けた方がいいよぉ。経費請求で不正してるらしいな。噂になってるぞ。そんなので引っかかって会社を解雇になったやつも見てきたからなあ」。
何ともいやらしい脅しをしてきます。
自分自身は全く業務上で走ることはなく、不正請求してきてるはずなのに。
私に「告発してやろうか」という脅しです。
どうしても私を陥れたい。私に「パワハラを止めて…」と言われて態度を変えざるを得なかったことが我慢ならないのでしょう。
「今日はどれくらい走ったのかなあ」なんてこともささやいてきます。
薄汚い本性。実は小物。しょうもないおっさん。
私はそのたびにドキッとするけれど、、逆にそれ以上は言えないだろうとも感じるのでした。
その凶暴な性格の人間が必死で抑えている。余程悪事を暴かれることが怖いのでしょう。
ただ、これだけの批判や嫌味も十分パワハラです。車の経費のことも十分脅しです。
以前よりましになっただけです。
そのことでまだ勝負したり、支社部長に訴えることまでは思いませんでした。
何とか持ちこたえられる感じだったからです。
あと半年かあ。長い我慢の日々でした。
・そして年度末
冬になり、家族の元への長距離の帰省もあと数カ月となってきました。
それは待ち遠しいけれど、心配もありました。
家族は長男が中学入学と同時に、関西に帰ってくることになっています。
そう、どこに住むのかという問題です。
私としては、私の実家がある京都に来てくれるものと思い込んでいました。
妻との間に溝ができ、口もほとんどきいてもらえないのにです。
帰った時に恐る恐る切り出しました。
「京都の実家近くで家を探して。そしたらちょうど帰省する時にも便利やし」。
間髪入れず、ロクに口もきいてくれない妻が激怒し始めました。
「そんなはずないやろっ! 私が働いたら子供の面倒誰が見てくれるんな?!」
続けざまに「私の実家しかないやろっ!」。
すごい剣幕でした。
他のいら立ちも一緒にぶつけるように。
私はそれ以上何も言えませんでした。
あっけなく京都に戻らせる構想は崩れ去ったのでした。
ものすごいいら立ちと寂しさとが交錯しました。
妻は元から自分の実家ありきだったのでしょう。
それからしばらくして、何の相談もなく義父母とだけ相談して新たな住居をほぼ決めてから、子供を通じて連絡がありました。
「〇〇に住むことになったよ」。
それには愕然としました。ないがしろもいいところ。
全く相手にされていない。情けない。
私はただの給与を運んでくる人間か。この仕打ちは何なのか。
よりを戻したい気持ちが揺らいでいく瞬間でした.
新たな住居の件では、夜遅くに義母からも電話がかかってきました。
激しい気性の人。酔っ払っているようでした。
私が京都に住んで欲しいと言う話がどう伝わったのか、激怒してヒステリックにギャアギャア唸り倒されました。
「何が○○やねん?!」と私の姓についても吐き捨てられました。
私も思わず応戦。物別れのままに切られました。
何日も怒りが消えませんでした。
なぜ、ないがしろにされて、更に義母にまでギャアギャア言われないといけないのか。
自立できてない親子関係に辟易していました。どこまでベッタリなのか。
それ以降、帰省しても住居のことに触れるのが怖くなっていました。
内心は納得していません。
でもすでにマンションの契約手続きを進めているようでした。
契約書の記入については連絡がありました。
そこだけは「俺」か。
「誰が家賃を払うと思ってるんや」心の中で叫んでいました。
それでも言えないままでした。言っても揉めるのが再燃するだけ。疲れるだけ。
年度末、ようやくその拠点長も定年で終わり。やっと1年。耐えた。
思い返しただけでもよく耐えたと思う。
その頃、その拠点長に言われました。
「ものすごくできた副拠点長に会社生活最後に出会えてよかったなあ」。
まだ嫌味言うか。
続けて「おまえは、後々私に感謝することになる」。
意味不明でした。どう思って言ったのか。
私は間もなくその拠点長から解放される。
姿を見ると怖いけど、もうビクビクはしなくなっていました。
ただし、私は留任。副拠点長のままとの内示でした。
何の評価もされなかった1年。
と言うことは、新年度には新たな拠点長が来る。
どんな人なのか。また不安感が募りました。
・家族は大阪に
新年度、家族は予定通り、妻の実家のすぐ近くのマンションに引越しました。
私の社宅マンションから車で3時間半。また遠い。
妻とは引越しのこともあって、益々ギクシャクしています。
かなり腹が立っているくせに、よりを戻したいとも願っている自分がいました。
複雑な男心?
長男は中学生になりました。野球を続けたいとシニアリーグに入部。
硬式野球です。和気あいあいではなく、本格的な練習です。
長男の顔つきも変わっていきました。
次男も前居住地では、長男に交じって野球をしてきました。
引越し後も引き続き地元の少年野球チームに入団しました。
みんな野球漬け。妻も長男の野球にのめり込んできました。
中学になり、自身の地元に戻り、更にのめり込んでいきました。
どうしても他の子に遅れを取らせまいと殺気立ってる様子でした。
親たちとの付き合い。子育てというより、子供の管理…。必死です。
子供たちに向けても軍隊調になっています。
家でも、朝起こしてすぐ起きなかったり、用意をタラタラとやっていると、男の口調で怒鳴りまくっています。
子供たちもビクッと恐れている。
聞いている私もビクッと金縛りのようになりました。すごい迫力です。
早朝からの練習。私も必死で起きて見に行きました。
でもうつ状態に変わりはなく、アルコール依存も続いています。
かなりのストレスと睡魔で疲れ切った姿だったと思います。
妻は、また他の男親がテキパキと自主的に手伝っている姿を見て、私と見比べているのが伝わってきます。
そしてすごい険しい表情になっている。
何も言われなくても圧がかかってきます。
私も一生懸命やっているつもりです。でも身体もしんどい。
時々車に休憩に戻りました。
妻はそれが余計に気に食わないのでしょう。
益々無視どころか表情が険しくなっていきました。
自分の居場所がない。
私は帰省した時には、洗濯物を取り込んで畳んだり、掃除機をかけたり…。
妻に気に入られようとしている、妻の顔色を窺っている。
でもそれだけがんばっても何一つ変わりません。
むしろ私が帰ってくるのがうっとうしいと思っている感じでした。
当時、親友からは「何で別れへんねん」と不思議がられました。
そんな仕打ちを受けながらもしがみついている自分が情けない。
世間体ではありません。
妻への思いもまだあった。まだ小中学生の子供への思いもある。
別れれば子供の親権は向こうに行くでしょう。姓も変わるかもしれません。
子供に会えなくなる。それは辛すぎる。
そんなことも頭をよぎるのです。
完全に形勢は妻主導。
家庭の状況が悪いのは「私がすべて悪かったから」ということになっている気がしました。
毎月、給与の大半を渡しているのが空しく感じてくる。
家庭はそんな日々が続き、帰省も毎週から、隔週、月1回と変わっていきました。
帰ってまで辛い思いをするのは苦痛でしかありません。
「妻と会いたい」から、会うのが「苦痛」に変わっていきました。
子供に会いたい。でもそれ以上に苦痛でした。
週末は私にとって、週に1回の息継ぎの瞬間。平日のストレスを癒す時。
その息継ぎのはずの帰省が息を止める瞬間になっていきました。
・2年目・救いの人の下で
新年度、仕事の方は新たな拠点長が着任します。どんな人か。ドキドキしていました。
新年度初日、支社幹部に引率されて新たな拠点長が来ました。
映画「男はつらいよ」の”寅さん風”の人でした。私より11才年上。
その新たな拠点長は、前年度3月、前任の”パワハラの拠点長”と引継ぎで一度会ったようです。
前任の拠点長を見たからか、それとも私のおかしな様子を感じ取ったからか。
着任初日に「大丈夫か?」と聞かれました。
新たなその拠点長は真っ当な人でした。全くパワハラとは無縁。
仕事には厳しくても、私や職員にも気遣いの人でした。
その拠点長は私や私が信頼している育成担当リーダー2人をよく飲みに連れてくれました。
楽しく飲める会です。
販売強化月間では、大事な〆切の日に、拠点で自らカレーライスやうどんなどを作って職員たちに振る舞ったり、アットホームな雰囲気づくりを心掛ける人でした。
朝礼で職員みんなで盆踊りの練習をして、地域の祭りの盆踊りに拠点として参加したりしました。
私には神輿を担ぎに行ってこいと言われ、ある企業の社長が仕切っている神輿のチームに参加しました。仕事中にです。
心病んだままの私には刺激的でした。
あいにくの雨の中で寒かったのですが、いい思い出になりました。
その新たな拠点長は拠点の盛り立て方が全く違いました。
人情家で人柄も素敵な人でした。
年度末はあっという間に近付きました。
その新たな拠点長のお陰もあって、隣り町の拠点で拠点長に復帰の内示が出ました。
40代。環境は年々激変していきます。
強烈なパワハラを経験して、まだ心は病んだまま。
うつ状態が改善されたわけではありません。
心の病はそう簡単には今日や明日では変わりません。
そこに幸か不幸か拠点長復帰です。
拠点長職務のせいで散々心が病んできたのに、当時はまだ社会的な立場や給与のこともあって、復帰ありきで考えていました。
また一人立ち。矢面。
家庭は妻との関係が益々重苦しくなるばかり。
子供たちとも単身赴任が続き、時々しか会えません。
そこに実父母の介護問題も浮上してきました。
父は10年ほど前に脳卒中で倒れて以降、長くリハビリ生活でした。
ようやく杖を突いて何とか歩くまでになったところ。
年令も80才を前にかなり弱ってきている様子でした。
母が面倒を看ていますが母も同じく高齢です。
今後誰がどうやって看ていくのか。
HSPならではの不安になる性分。
そこに現実での多くの不安材料が山積です。
「どうなっていくんだろう」。私の心境です。
当時は「どうするのか」ではなく「どうなっていくのか」。
つまり他力本願。受け身。周りの環境のせい。
翻弄されながらの日々でした。
その頃の私を支えてくれたことわざ。
「人間万事塞翁が馬」
簡単に言うと、不幸が幸福に、幸福が不幸に転じることもあるのだから、安易に悲しんだり喜んだりするものではない、という意味。
つまり「人生では、何がよくて何が悪いのか、後になってみないと分からない」ってことでしょうか。
いつも壁に貼り出して眺めていました。
そんな翻弄される日々の中、今度こそ不安を払拭したい、この生きづらさを何とかしたい、心から願うようになっていきました。
今度こそ立ち直っていかないと。
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