【平成~令和】生保営業の現場が乗り越えてきた荒波
生命保険業界は明治時代の創業以来、大正・昭和と戦争を筆頭に激変する政治や景気変動の波を乗り越えてきました。
想像を絶する時代だったと推察します。
私が入社した平成時代もバブル景気の崩壊と自由化の波から始まって、様々な大きな変化や問題が降りかかってきました。
生保の営業現場にいた私が特に印象に残った業界全体に降りかかった出来事を思い出しながら書いてみます。
1.「バブル崩壊」と「自由化」の波
2.阪神淡路大震災
3.個人情報保護法の成立
4.保険金不払い問題
5.リーマンショック
6.東日本大震災
7.コンプライアンス意識の醸成とSDG’s
8.コロナ禍
9.まとめ
1.「バブル崩壊」と「自由化」の波
昭和の終わりから平成はじめにかけて日本はバブル景気という異常なほどの景気を経験しました。株価、土地等が値を上げ、世の中が浮かれていました。多くの日本企業が世界的にみてもずば抜けた力を誇っていました。
我が生保業界も「THE生保」とまで言われ、浮かれていた時代だと思います。
私はそのバブル景気の末期にいわゆるバブル採用と揶揄される大量採用の中に紛れ込んで入社。
私にとっては会社の知名度と給与の良さが決め手でした。
入社後すぐ「バブル景気崩壊」。
しばらくは変化を感じず。何が起こるんだと不安に思っていたら、平成9年から13年頃に大手銀行や中堅生保が次々にまさかの倒産。衝撃的でした。一流大学を出て大手銀行に入行することは超エリートだと思われていましたが、そんな人達が一瞬にして職を失ったのです。
生保業界も保険料の運用が逆ザヤ状態でかなり厳しい時代だったのです。
次に倒産するのはどこかとメディアが騒ぎ立てました。
それに乗じて不安を煽る営業や自社の優位性を強調する営業がはびこりました。
風評被害にも戦々恐々としました。
この頃、危機感を持った業界はその風評被害が大問題だと、営業現場のコンプライアンス意識のより一層の強化を求めるようになっていきました。
それとともに「予定利率」という「保険料の割引利率的」な利率が段階的に次々に引き下げられ、貯蓄性の保険は益々売りづらくなりました。
その流れから、平成12年頃、各社は貯蓄性の保険から「アカウント型」と言われる掛け捨て型に近い保険が主流になっていきます。
配当金も「毎年配当」から「5年ごと配当」や「無配当」の商品に変化していきました。
「自由化」の波も同時に来ました。
それまでは全ての生保で商品も保険料も同じという大蔵省(当時)の護送船団方式と揶揄されるような方式でした。
自由化はアメリカの圧力があったのだと思いますが。まずは今は当たり前にある「三大疾病保険」の販売を皮切りに始まりました。
その後、どんどん新しい特約の販売合戦へとつながっていきます。
平成8年には金融ビッグバンと呼ばれる金融・証券市場の大改革がありました。生保と損保は法的に別々の扱いでしたが「相互乗り入れ」開始。
生保が損保の代理店の形で損保も売り、損保も同様に生保を売る、いわゆる「たすき掛け」的な形での販売がスタートしました。
損保の販売資格試験を受け、現場では全く分からない商品知識も実務もシステムも分からず混乱しました。
その当時、何でもかんでもエラーや不備が出るとパゾコンに「拠点長に確認」と出たのです。
「こっちも分からんわっ!」とパソコンに向けて怒っていたもんです(笑)
この頃に「乗合代理店」も出始めました。「〇〇の窓口」みたいなやつです。
何社もの生保会社の商品から種類ごとに選択して契約を組み合わせるような販売チャネルです。
平成14年頃からは今までの死亡保険から第3分野と言われる「医療保険」が商品の柱に。
今まで死亡保障や3大疾病保険を語るデータとか営業トークばかりだったのが、とたんに「医療保険の大切さ」を語るデータや営業トークに変化していったときは「節操ないな」とは感じたのも本当です。必要性は確かにありますが。
更に少し先である平成19年頃、かんぽ生命が民営化、ネット系生保や銀行窓販も始まり、販売チャネルの多様化と競合相手が多種多様になっていきました。
2.阪神淡路大震災
平成7年1月17日早朝5時46分兵庫県淡路島北部沖を震源にマグニチュード7.3の地震が発生。私は奈良県生駒市に住んでいました。強烈な縦揺れ。代用社宅の一戸建てでしたがよく大丈夫だったもんです。会社に向かう途中も余震。一瞬タイヤがパンクしたように車がまるで地面に沈んでいくような感覚でした。周りを見ると、電柱がグニャングニャンと揺れていました。「あ、地震なんだ」。
当時の勤務地は東大阪でした。事務所内の窓ガラスは割れ、ロッカー等があちこちで倒れていました。
神戸市内勤務だった同僚に聞くと、自身の家はプレハブだったためか一緒に揺れて返って倒壊しなかったと。外に出たらあちこちで家が倒壊し、うめき声が聞こえてきたらしいです。近所の人たちと布団をタンカ代わりに倒れている人を運んだんだそうです。
消防が来たのは3日後だったとか。
そんな強烈な災害の中、生保の営業職員は自身の家も被災しながらもお客様の安否確認に動きました。まだ携帯電話もまともにはない頃です。
生保会社も多くは特別対応で本人確認ができれば保険金・給付金の支払いを即決行しました。
また多くの支援物資、寄付金の支援や現地へのボランティアの派遣も印象に残っています。
3.個人情報保護法の成立
IT化も進む中で平成15年に「個人情報の保護に関する法律」が成立。それを受けて多くの企業がセキュリティの強化に動き、生保の営業職員も職域と呼ばれる事業所での営業活動が大きく制限されることになってしまいまいた。
大きな事業所1本で活動していた職員は死活問題でしたが何とか個別にアポイントをとったりと凌いでいきました。
業界にとってもお客様の個人情報を守ることが徹底されていきました。業界にとっては厳しくも大事な転機であったように思います。
4.保険金不払い問題
平成17年頃からの数年間でしたか、保険金不払い問題というできごとが起こりました。
営業拠点で毎日数字に追われながら仕事をしていた最中に突然「営業所のシャッターを当面閉める」というお達しがきて面喰いました。すごい唐突感と意味不明な感じ。
金融庁によって、支払いモレの事象が、ある生保であったためそれを発端に全生保で再調査せよとのことでした。そこで全生保が一時営業を止めて過去の保全手続きを全て見直す作業をすることになったのです。大変でした。数カ月間、本当に営業を止めて営業拠点のシャッターも閉めて、事務の内勤は支社や本社に日々長時間の確認作業。ホテル住まいの缶詰め状態でした。
拠点長も内勤業務を短期間で叩き込まれ、営業拠点での内勤事務の代役をしました。
頭の中はいっぱいいっぱいだったと記憶しています。
平成以降、自由化で各社が商品や特約の種類をより細分化して他社と差別化しようと競争が激化しました。それにより契約を管理する機械も営業現場も1人ひとりの契約内容を押さえ切れてなかったことが主な要因だったのではないかと思います。お客様も契約内容が細か過ぎて覚えてるはずもありません。
そのことを猛反省して、各社、年に一度はお客様に契約内容を確認いただこうという活動がスタートしていったのです。
それまでは給与は契約をいただいてなんぼ、という成果主義でした。営業職員の多くはやはり契約をいただけそうな若い層を中心に回ってしまい、極端に言えば、年配層のお客様は保全のあるときだけ行くって感じでした。
年に一度はお客様に確認いただく活動を本気で浸透させるために契約の成果だけではなく、地道な日頃の活動も給与の評価に加えていきました。
私的には「やっとか」とは思ってました。
5.リーマンショック
平成20年、リーマンショックという経済危機もありました。
ちょうど不払い問題にまだ対応している最中。まだ来るか? という思いでした。
予定利率や配当金にも大きく影響し、益々営業はしづらい環境でした。
それでもお客様の支援と営業職員のがんばりで乗り切れたんだと思います。
6.東日本大震災
平成23年3月11日、東日本大震災が発生しました。私は北陸にいましたがビルの2階でゆっくり揺れたのを覚えています。
津波や原発の二次被害もあって大惨事となりました。我が社でも多くの営業拠点が損壊したり津波で浸水し、甚大な被害を被りました。ニュースを見るだけで強烈なショックを受けました。
阪神大震災同様、そんな強烈な災害の中、生保の営業職員は自身の家も被災しながらもお客様の安否確認に動きました。
阪神大震災の教訓を活かして、生保各社も多くは特別対応で本人確認ができれば保険金・給付金の支払いを即決行しました。
未だに復興は道半ば、乗り越えていって欲しいと切に願っています。
地震は他にも多くありました。今からも南海トラフだとか首都直下地震だとかが想定されています。日頃の備えの大切さを痛感します。
7.コンプライアンス意識の醸成とSDG’s
そして平成の終わり近くになり、様々な世間の事件や事象を受けてコンプライアンス遵守の意識が高まっていきます。ハラスメント問題、働き方改革、SDG’s、飲酒運転等の交通安全意識の浸透に向けて各社真剣に取り組んでいます。
ある生保でのムリなノルマによって詐欺的な契約締結が問題になりました。対岸の火事ではありません。業界全体が我がこととして考える時代です。そして各社いわゆる「ノルマ」に対しての考え方も変えてきています。
私的にはこれも「やっとか」とは思ってますが。
8.コロナ禍
平成後半には共働きが増え、日中に住宅地に行っても不在の家がほとんどとなりました。各社日中にも比較的面談しやすい年配層には医療保険や投資的保険の投入、相続対策として生前贈与への保険活用等活路を見いだそうと工夫しています。また制限は増えたとはいえ職域での活動により力を入れているのが現状かと思います。
そしてここ数年コロナ禍という想定外の問題で、それまでもIT化に向けて準備はしていたものの、急激な対応が迫られ、各社必死で対応してるのが現状だと思います。
会社も必死。営業職員もついていくのに必死。職場に営業でお邪魔できない、在宅ワーク当たり前になって益々SNS等でのやりとりの両立が課題になっています。
教える立場だった私自身がついていけないスピード感でした。
新型コロナウィルスが騒がれ始めた令和2年4月、最初の「緊急事態宣言」発令。
罹患するとまるで死んでしまうのではないか、くらいに世の中は恐れました。街中から本当に人の姿が消えました。
会社も週3回拠点長は出勤も営業職員は時間を区切っての出勤。
「人生ってなんだろうか」「今まで必死でやってきたことって何だろうか」
人生そのものを考えさせられました。
9.まとめ
大きくはこんな様々なことがありながら生命保険業界は耐え抜いてきました。
各社創業以降、もっと大変なことがあったと思います。第一次、第二次世界大戦は最たるものでしょう。その後に経済危機も多々あったと思います。
その都度、経営陣や職員の努力、何より契約者の皆様の支援で乗り越えてこられたのです。
私が経験してきた平成という時代もある意味変化の時代でした。私の書いたこと以外にも経営する人達からすればもっといっぱいの苦難があったと思います。
平成初旬、多くの大先輩が「これからは大変だな」と言っていました。まだまだ若かった私には漠然とした不安感だけでした。
今となって言えば、いろいろあれど何とか乗り越えてきた、ってことです。
これからも時代に合わせて進化して欲しいと期待を持っています。
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